教師が<教師>であるために

岐阜サークル 河田秀明

 竹内氏は、昨年の著書「少年期不在」のあとがきのなかで「・・・私が本書で語りたかったことは、おとなのありようを問うことなしに、子どもがいなくなったと嘆くことにあるのではなくて、おとなが<おとな>であるとき、はじめて子どももまた<子ども>であることができる。という点にあることだけは明記しておきたい。・・・」と述べている。 私は、この言葉の中の<おとな>を、<教師>に置き換えてみたらどうだろうかと思う。「教師が<教師>であるとき、はじめてこどももまた<子ども>であることができる」ということになる。では、<教師>であるということは、何を意味するのであろうか?

 当然のことであるが、私は家庭においては、「父親」であって<教師>ではない(子どもは、私に「教師」くささを感じているかもしれないが、そのことはここではふれない)。してみると、私が<教師>であるためには、「学校で子どもに出会っている私」という場が必要条件であり、問題となるのは、私という存在自体ではなく、私がどんな思想・理念をもって、子どもの前に立っているのかということになると思う。そこで、「私は、どんな思想・理念をもって、子どもに接しているのだろうか」と問うてみた。

 まず浮かんだのが「教育は、人格の完成を目指し、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」という、あの教育基本法の文言だった。いやぁ、日々の実践となると・・・と考えて、次に浮かんできたのが「生活指導とは、子どもたちが自分たちの必要と要求に基づいて生活と学習の民主的な共同化に取り組み、そのなかで、人格的自立を追求し、社会の民主的な形成者としての自覚と力量を獲得していくように励ます教師の教育活動である」という全生研の生活指導の定義だった。もちろん、この二つの文言を正確に思い出したわけではないのだが、それに近い言葉では思い出すことができたのである。その時私は、なぜかホッとしたのである。基本的にそうした教師として行動してきた自分を思い出せたからである。

 どこの学校もそうだと思うが、毎年、年度末になると、1年間の学校反省と来年度の方針を検討する職員会議が開かれる。私は、その職員会議で、毎年、学校教育目標に対して、異議を唱えてきている。私の学校の教育目標は「豊かで、たくましい子の育成」であるが、私は、「この教育目標では、弱者である子どもへの共感や、平和・民主的といった視点がぬけていきはしないか。瑣末的な指導目標をかかげるのではなく、もっと教育の本質的なものを掲げるべきだ。例えば、教育基本法の文言を具現化したものを目標としたらどうか・・・」と述べてきた。しかしながら、4年目の昨年も、やはり私の意見は取り上げられなかった。

 今、なぜこの例を持ち出したのかと言うと、目標をめぐっての私と他の教師とのズレは、「教師としてどんな思想・理念を体現して子どもに接しているのか」という点において、決定的に違っていたからなのでは・・・、と思い至ったからである。「たくましい子の育成」は、権力を持つ側が求める「子ども像」を、子どもたちに押し付けていくものである。弱音を吐くな、きびしい社会の中でも他者に助けを求めるのでなく、自己の責任と能力で生き抜いていけと主張する新自由主義の思想と一致する。そして当然のごとく、この教師として体現している思想・理念の違いは、日常の子どもへの指導場面においても決定的に違ってくる。新自由主義の思想を内包している教師に、授業を拒否し、学校からドロップアウトする子どもたちの、傷つき悩んでいる内面の声が、果たして聞き取れるのだろうか。現代の子どもたちは極めて権力的関係に怯えている。自分の弱さを出すことは、敗北を認めることであると思いこんでいるようである。だから、子ども側からすれば、「たくましく生きろ」という迫る教師の前では、本来の未熟で失敗を繰り返す<子ども>の姿でいることができないだろう。

 思想・理念という言葉を使ってきたが、教師という仕事は、その大半を即興性で子どもと接しているのであるから、実践的には、どういう思想・理念を身体に宿している教師であるかどうかの問題である。社会・学校が「たくましく・・・」を要求していることを考えれば、教師一人ひとりが、それとは知らずに、新自由主義の思想を自らの身体に宿すこともある。嫌、子ども側からいえば、学校の教師であるというだけで、その権力的性を感じているともいえる。だから、私たち教師は、自らが発する言葉や行動を絶えずチェックしていくという作業が必要となる。そうであれば、私たちが行なっている「レポート分析」がこれほど大切な時期はないと言えないだろうか。

 教師が<教師>であるために、子どもが<子ども>であるために、お互いにできるだけ多くレポートを出しあって、分析していきましょう。  (河田秀明)

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