岐生研常任合宿研 藤井先生の講座

 これは、愛知教育大学 藤井啓之先生の論文を抜き書きしたものです。岐生研常任合宿研での学習(講座「子どもと文化」)をふまえ、子どもたちをどう見て、どんな方策を打っていったらいいのかが分かりやすくまとめてあります。来年度の基調提案をつくる上で参考資料になると思います。御検討下さい。

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「変わりゆく社会と子ども・青年」

                  愛知教育大学 藤井啓之

一、最近の子どもの「荒れ」の原因をどう  とらえるのか

1、子ども達の「新しい(?)」荒れ

 「子どもが見えない」「子どもが無表情になった」

 校内暴力も戦後第四のピークか

 「新しい荒れ」といわれる現象

 @ごくフツーの生徒に広く現れている

 A荒れの原因が少なくとも指導する側にとってはっきりとつかみづらい

2、荒れの原因の本格的な究明を急げ

 浅薄な原因分析に基づく改革案が、状況を一層悪化させる方向での改革案になっていることが多い。

3、どんな原因分析と改革案が流布しているか

今までの原因分析や改革案をまとめると3つ

1)管理強化の方向性

 子どもの荒れの原因は教師の権威・権力の低下にある。だから管理体制を強化していく。子どもに人権を認めたから、子どもがつけあがって今日の荒れが生じた。今の学校に管理なんかない。子どもたちはやりたい放題やっている。

★この方向は、子どもたちは身体も精神も徹底的に管理されていく過程で、その抑圧から逃れるために開き直って荒れていることを見逃している。

2)新自由主義的な方向性

 子どもはやりたくもないことを、やりたくもない人たちといっしょにやらされているからいけない。やらされているから、自分の行動に責任が取れない。やりたくないことだからストレスが溜まる。だから、荒れるのだ。従って、徹底的な自由主義で、自己選択と自己責任の原理で。(カリキュラムの個人化、学級の解体、義務教育解体・・・)

★本当の意味での個人の自由な選択は不可能。既に性、階層などによって、すでに一定の選択圧力を受けている。全くの自由ということは、何にも拘束されない変わりに、誰にも必要とされないということになってしまう。今の子どもの荒れの原因である孤立感を深めることになりかねない。

3)対話的実践の方向性(これが最も有効)

 子どもや青年は学校やその他の様々なことに不満を持っているから荒れる。だから、「子どもの声を聞く」「子どもと話し合う」ことから始めなければならない。

 そのためには、何か子どもたちに教え込もうという教師の構えをいったん保留する。また、教師の仕事量の軽減、学級定数の縮小などの行政的な処置が必要。

二、不透明な社会の中での子ども・青年  の変身願望

1、不透明な社会

 中教審「これからのわが国社会は、国際化、情報化、科学技術の発展、高齢化・少子化などといった急速な変化に直面し、先行き不透明な厳しい時代を迎えることとなる。こうした社会の変化に柔軟に対応できる、個性的な人材や創造的な人材を育成することは、わが国が活力ある社会として発展していく上で不可欠である。」

 しかし、これからの社会が「先行き」不透明なのではなく、いまの社会自体が、子ども・青年にとって不透明であるということが、深刻な事態をもたらしている。子ども・青年たちには、他人も見えなければ、社会も見えていない。そして、そのなかで自分が見えなくなっている(透明な存在!)すでに不透明な社会なのに、さらにその変化にあわせて柔軟に対応しろというのだから、子どもたちは、ますます自分を透明にするしかなくなる。

2、成長できない(?)子ども・青年たち

 荒れの原因は、子ども・青年がいろいろな意味で「孤立」しており、自己の中に豊かなもう一人の自分をつくり出す機会(時間・空間、指導者・仲間)や、自己を世界の中に位置づけていく機会を奪われているところにある。

 これまでは、子ども・青年を「未熟な存在」、したがって「成長する存在」というイメージでとらえていた。しかし、今日、私たちの目には、子どもたちの姿が「未熟」には見えても「成長するもの」とは映らない。

 成長するとは、人格の面でいえば、「他者との交流の中で、他人の気持ちを知ったり、それを通して自分と他人の関係について考えたり、自己をコントロールできるようになったり・・・」ということであろう。この点から見れば、まさに自分をコントロールできないでいるのが今の子ども・青年であろう。

 また、学習の面で考えるならば、学習を通して、「世の中」や「世の中で息づいている科学の営み」に触れていき、世の中と自分のつながりを理解しながら、少しずつでも世の中へと参加できるようになっていくことであろう。この意味から見ても、「テストができても世間知らず」であったり、「世の中の問題に無関心」であったりする今の子ども・青年は、成長できないでいるといえる。

3、不透明な社会の中での子ども・青年の

  自己像

 子ども・青年が成長できなくなっている背景。ここ最近の子ども・青年の自己構造の変化の流れは、

@「内なる支配的他者」と「抑圧される自己」の分裂  (子どもの自分くずしと自分つくり)

 下からの能力主義等による教育家族の成立と前後して、自分の中に、学力競争に駆り立てる内なる支配的な他者(母親等)を取り込んで、その意向に沿って行動しようとする子ども・青年が多数登場。その「内なる他者」と「自我」との葛藤として、いじめや登校拒否、家庭内暴力などの問題行動が噴出してきた。

・(第一次反抗期)自己に由来しないことは他者のものであるという意識を経由して自己を意識し、自我を確立する。

・(少年期)ギャング集団を内面化して「一般化された他者」を獲得し、それとの関係で自己を形成する。

・(思春期)特定の友だちの喜びや悲しみに共感し、その友だちの自分に対する反応・態度に沿って自己を作り直そうとする。

 といった子どもの自己の成立のプロセスの中で、問題行動を通して人格を再統合する、つまり、同年輩と結ばれる友情的・連帯的関係を契機に、「内なる支配的他者」と「抑圧された自己」の関係を組み替え、共感的・共闘的な他者をつくり出すことを実践的に追求していった。しかし、その依拠すべき友人関係が希薄になってきていた。

 

A「ダミー的自己と『本当の』自己の分裂」

 様々な要因から人間関係が希薄化するにつれて、周囲の人たちが「自分のことを分かってくれない」「自分を傷つける」ということで、それらから自我を守ろうとして、とりあえず、自我とは別の、対人用のダミー的な自己を作りだし、それによって自己を誰にでも合わせておくという戦略が取られるようになる。

 物事を深く考えず、そのような関係の中で、適当に面白おかしくやり過ごそうとするタイプが多い。しかし、そういう対人作法は、やがて「自分も他人に合わせているのだから、他人も自分に合わせているに違いない」という疑念を生み出し、ますます他者との関係は希薄化する。この中で「明るい若者たちの居場所のなさ」が問題として浮上してくる。 この「調整する自己」と「ダミー的自己」の矛盾による問題行動は、ダミー的自己やダミー的他者を操作的に扱うことから噴出してくる。異装、売春、薬物、いじめ・・・、ダミー的自己の破壊願望(体も自分のものでない、精神さえも自分のものではない。)

B「内なる他者の消滅」

 消費文化による直接支配によって、親・教師・学校のように支配者を特定できなくなった。また、バーチャルな世界が出てきて、他者という観念を避けて通れる様になってきたことにより、「内なる他者」がつくれなくなってきている。

 さらに、関係性が希薄化することによって、「そもそも、他人のことなど気にかけようとは思わない」子ども・青年が登場する。彼らは、自我を取り巻くもう一人の自分(内なる他者)が極めて希薄であるか、不在である。したがって、他者の視線もそれほど気にかけず、勝手気ままに行動する。

 この中で感覚的な子ども・青年は、もう一人の自分(内なる他者)が不在であるため、外からの刺激に対して、ストレートに反応が出る。ここに現在の「暴力の文化」の大きな原因がある。

 また、ある程度理論的な子ども・青年でも、自己の中に対話する他者を取り込んでいないので、「人間的優しさ」は放棄して、開き直って傲慢な主張をする。

 これらの@ABのような自己構造を持つ子どもが、全体としての比重をBの方へ移行させながらも混在している。

4、不透明な社会による成長の阻害

 成長した自己イメージは「自己と他者と世界は相互交渉しながら、変化している。その結果、自己と世界の関係が豊かになり、世界は広がっていく。」だが、子ども・青年はどうしてここから逸脱してしまったのか。

 @競争社会の問題:他者が常に競争の相手であり、理解し合う相手ではなくなりつつある。最初は偏差値競争を激化させ、推薦入試枠の拡大や、内申書重視、新学力観による「意欲・関心・態度」も含めた人格競争にまで競争を拡大させてきた。これが、子ども・青年たちを分断し、彼らが自己の中に他者を取り込むことをますます困難にしてきた。

 A高度情報化社会の問題:情報化社会では、情報そのものがひとつの世界を構成することが可能である。子どもたちは情報の世界にからめ取られて、現実世界へとつながっていくことを困難にさせている状況にある。情報が、自己と現実世界の間に割り込んで、現実世界を見えにくくさせている。

 B大衆化社会の問題:大衆はますます情報の世界との近親性を高めており、そこに幽閉されている。だから、現実世界へのつながりがますます希薄になってしまう。

 C脱産業化社会・高度消費社会の問題:高度消費世界では、生産・創造・表現よりも消費・享受・受容に価値がおかれる。このような社会の中で、子ども・青年たちだけが、労働を愛し、創造する意欲を持つことは不可能に近い。お金は「労働しないためのもの」というイメージが形成されていく。こうした中で、恐喝、ひったくり、オヤジ狩りをして手に入れた金で豪遊する子どもたちの姿が登場してくる。また、消費社会は「忙しい大人がおもちゃやファミコン、ビデオに子守してもらう」といったように人間関係を商品に置き換えてしまう。そういった意味でも、消費社会は人間関係を希薄化させている。

5、「成長」が困難な社会の中での子どもた    ちの「変身」願望

 これまで見てきたように、子ども・青年たちにとって成長することは非常に困難になってきている。このような状況の中では、子ども・青年たちは、「成長」をあきらめて「変身」するしかなくなっている。

 現代の子ども・青年の変身願望の広がりには、目をみはるものがある。端的な例は、「コスプレ」といわれるアニメの主人公になりたがる子ども・青年たちであろう。しかし、その様な直接的な変身でなくとも、ナイフを持つことによる「弱者」から「強者」への変身、美容整形による「ブ男・ブ女」から「美男・美人」への変身、覚醒剤による「現実に生きる自分」から「幻想の世界に生きる自分」への変身等々、さまざまな領域でいとも簡単にハードルを越えて「変身」が−−たいていは商品の購入という消費を通して−−行われている。情報社会は、このような「変身」に成功した人々をとりあげて、子ども・青年たちの変身願望を強化していると思われる。

(現実をリセットしたり、厳しい修行による変身願望−−オウム真理教的な対応。)

 しかし、くどいようだが、「努力もしないで成長なんかするはずがない」と子ども・青年を責めてはならない。彼らの成長の喜び、成長するために必要な手続きを十分に教えてこなかったのは私たちだからだ。

三、子ども・青年の「成長」を保障していく   学校をつくっていくために

 

1、豊かな人間関係を築いていくための指導

・「孤立化した人間関係」を、「豊かな人間関係」に

 いじめられた子が、自分の身を護るために、ナイフを持って相手より強くなろうとする。あるいは、恐喝された子が、次からお金を取られないように、ナイフで身を護ろうとする。

 いじめる側も、これまで、豊かな人間関係の中で、行動するときに対話する自分の中のもう一人の自分を育ててくることができなかった。いじめられる側も、様々な問題を親や友だちや学校に相談しながら解決していくという経験をもてないできたのではないか。だから、一人で武器をとって戦わなければならない状況になってしまうのではないか。

・「バラバラの個性」に対して「つながりの個性」を

 そういう意味では、幼少時から豊かな人間関係を教えていくということが重要。教育現場では個性重視の名の下に、ある子どもが自分の活動に熱中しているときに、それを中断してはいけないからみんなで集合することはしないなどの「指導」が行われてきた。一見「個性」を重視しているように見えるが、これでは、他人に無関心な子どもをつくることになってしまう。一人一人自分のペースがあるというが、それだけを唯一絶対のものとした結果が、やりたい放題にやる子どもたちではないだろうか。

個性とは他者と関係を持たないことではなくて他者との関係の結び方の独自性をさす概念として捉えることが必要だろう。

・他者のリズムとあわせていける柔軟な「からだ」づくりを

 他者のことを気にかける心、他者のリズムとあわせていける柔軟な「からだ」を幼少時から育てていくことが重要。

 また、思春期は自分と他者との関係をある意味で哲学的に考える時期なので、もう一人の自分を作っていく上で、極めて重要な時期である。この時期に、学力競争や人格競争をさせることは、有害以外のなにものでもない。

・「話し合い」をもっと

 同時に、既に、関係がこじれて、自己が形成されていないという状況の中でも、「話し合う」ということは、問題を一歩ずつ理性的に解決していくちからをつける上で重要である。ナイフ事件では、アンケートこそすれ、「話し合い」の活動を行っていないのではないか。

2、情報を媒介としながら、現実世界と結び   ついていくための学習の指導

 子どもが自分と他者・現実世界とのつながりを確認できる学習をさせていくことが重要。しかし、現実世界に届く前に、情報世界のところで浮遊しているのが今の子どもたち。したがって、情報世界を突き抜けて、現実世界に到達できる学びを確立する必要がある。

 それには、現代の人類的課題といわれる平和・環境・人権などの問題をとりあげることが有効ではあるが、それだけでは不十分である。重要なのは、実際に何が起こっているのか、その問題をめぐって世間の人々は、そして、クラスの仲間はどういう態度・行動をとっているのかを自分で見て・聞いて・調べて、実感し、それに対して自分はどういう態度をとるべきなのか、を考えることである。

                    文責 上村

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