2001年度岐阜生研基調提案

平和的に生きる

〜交響的自治集団の形成へ〜

基調提案委員会

1 岐阜の学校と教育をめぐる状況の特徴

(1) はじめに

 「子どもたちは、昔と何もかわっちゃいない。みんな素直で、いい子ばかり。いつの時代も、間違えるのはおとななんだよ」。これは、年間百校を越える高校でコンサートをし、百万人以上の若者と出会ってきた、エレキの神様・寺内タケシ氏の言葉である。予算など最初から度外視、一校あたり百万円もの赤字も覚悟、心に響けばどこへでも出かける、自称「風の吹くまま気の向くままの寅さんバンド」。寺内氏は「そんなバカなバンドが、一つくらいなきゃいけないよ。世の中に」とも言っている。年間何万円の出費もものともせず、手弁当でサークル活動を続けるわたしたちと同じ生き様をしている人だからこそ、先のような核心をズバリとついた指摘ができるのであろう。

(2) 全国的な状況

ところで、学校と教育をめぐる状況は、来年度(2002年度)からの学校五日制の完全実施、総合的な学習の時間の施行に伴い、急激に悪化する事態のただ中にある。「よく分かる授業、子どもが安心して通える普通の学校」を望んでいる多くの親から、わたしたちの予想を超えるような大きなブーイングが巻き起こり、親と教師のすれ違いがさらに増大してしまうに違いない。教師と子ども、子どもと子ども、子どもと親、親と親、教師と教師の間は分断され、一人ひとりが孤立化され、敵対的な関係にさせられてしまうに違いない。

 一橋大学の渡辺治氏は、その事態の背景を「現在の教育改革は、外からの圧力によるもの。内部の教育困難や教育危機を憂えてのものではない。財界の圧力によるものである。・・・文部省が財界の圧力に屈服・同調して公教育の縮小に賛成したのは、かつてなかったことである」と指摘している。経済同友会の「合校」構想に向けた徹底的な「公教育に解体・スリム化」が行われようとしているのである。

 そうした「公教育の解体・スリム化」を貫徹するために、問題をおこす生徒への出席停止制度、特に優れた資質と認める者の十七歳大学入学、「不適格教員」排除、小人数指導を可能とする教職員配置、校長権限の強化、職員会議の諮問機関化、成績主義賃金の導入、国旗国歌法、学習指導要領の拘束力強化と内容の改悪(奉仕活動の義務化、道徳の強化、基礎・基本の軽視)、教科書攻撃、学区制の廃止などが行われようとしているのである。

(3) 岐阜県の状況

岐阜県では、それらの「間違い」がどのように進められようとしているのか。それを注意深く検討しながら、わたしたちの実践のスタンスの在り様をさらに確かなものにしていくことが、今何よりも求められているのではないだろうか。岐阜県の「間違い」の特徴の一つは、「トップダウン、上意下達の管理の一層の強化」である。「ことなかれ主義」「長いものには巻かれろ主義」が岐阜県の保守的な土壌を支えてきたが、その最たるものが行政と教育界であった。行政では、それは、岐阜市長選の市役所ぐるみの選挙違反という形で表れた。教育界では、管理の強化を強めつつ、「教員のリストラ政策」が「いやがらせ的な多忙と疲れの増大」という陰湿な形で進められようとしていることが、第二の特徴である。広域人事、45歳以上への勧奨退職、週案の提出の強要、パソコン・英会話ができないものへの圧迫、校外研での授業回数の増大など、「45歳以上の教員はもういりません。パソコンや英会話のできない教員はもういりません。広域人事がいやなものはさっさとやめてください。授業がいやなものは、さっさとやめてください」県教委の施策は間違いなくこの方向で動いている。それを、一言で言えば「管理の強化により、管理職を追いつめ、管理職と教員の間を分断し、教員を退職へと追い込む」という構図になる。現に、40代以上の教員の中に、「もう教師をやめたい」という気分はかつてないほど広がってきているし、長く民主教育を担ってきた教員すらも、定年を前に陸続とやめ始めてきているのである。

(4) 子どもの状況

23年ぶりに小学校1年生を担任した加藤氏は、次のように感じたという。「寺内タケシ氏の子どもたちは、みんな素直で、いい子ばかりという指摘に共感する。そればかりか、子どもらのむじゃきさ、けなげさ、かわいさ、ひたむきさが、わたしに新たな生きる希望と勇気を与えてくれた。わたしは1年生の子どもらと若い父母の皆さんに深く、深く感謝している。その子どもや父母たちのために、できる限りのことをしてあげたい。そんな思いを強く抱きながら、2年生に持ち上がった。」たしかに加藤氏の言うとおりであろう。しかし、わたしたちはもう一つの現実を直視しなければならない。それは、ほとんどすべての子どもたちが、学校へ通えば通うほど学ぶ意欲を失い、あきらめと絶望と自己否定感を強めてしまっているという事実である。ある調査によると、「子どもたちがいちばん大事にしたいもの」のベスト3は、@自分、A家族、B友達になったという。以前は「家族」、「友達」はあっても、「自分」はなかったのである。「自分」がトップになっていることは、一体何を意味しているのであろうか。それは、子どもたちは合宿研のテーマである「友達との出会い、見失った自分との出会い」を求めていることを意味している。現代の子どもたちは、確かに「みんな素直で、いい子ばかり」なのだが、次のようなことを訴え、求めているのである。

@「よい子」を求める大人(親・教師)の過保護・過干渉・お節介は、もうごめんだ。「あんたは今のままでいいんだよ」という言葉をかけてくれよ。ありのままの自分を受け止めてくれよ。

A居場所と出番と自分のかけがえのなさ=自己肯定感を激しく求めている。

B自分と世界とその関係を意味づけることができるような学びを激しく求めている。

 この三点をセットした活動・授業に出会ったとき、現代の子ども達はわたしたちの予想を超えた、今の大人にはない力と姿を見せてくれるのである。そこに、わたしたちの生きる希望と未来がある。

(5) 現状を切り開く実践と研究を求めて

学校と教育と子どもたちをめぐる現状を冷静に見るならば、ここしばらくは状況の好転は望めない。それどころか悪化の一途を辿るばかりに違いない。そういう中にあっては、「教師をやめないこと、続けること」が一つの大きなたたかいになる。それは、一見消極的なたたかいに見えるがそうではない。「やめないこと、続けること」は、「断固として、今を、教師として生きる」ことの、新たな自己決意・自己確認なのである。その方法は、多様であってよい。とりあえずは、自分流の無理のないやり方でよい。組合や女性部に支えてもらう、愚痴を聞いてもらう、親しい友人と観劇や映画を楽しむ、趣味の旅行や釣りやグルメやスポーツを楽しむ、などなど、とりあえずは何でもよいのである。だが、わたしたちは、ふところ深く「何でもよい」ことを承認しながらも、以下のことを提起する。わたしたちは「やめない、続ける」ことによって、教師と子ども・父母との関係を「すれ違い」から、つきあえばつきあうほど、お互いにいやし・いやしあえる関係に、お互いに支え・支えあえる関係に、お互いにはげまし・はげましあえる関係につくりなおしていくことを提起する。

 教師と子ども・父母との関係 をそのようにつくりなおしながら、子どもと子どもの関係、子どもと親の関係、親と親の関係、教師と教師の関係をつくりなおし、「共に生きる世界・生きるにあたいする世界」を創造していくことを提起する。

わたしたちは、これまでの実践と研究の積み重ねにより、 そのための教師としての生き方のスタンス、実践のスタンスと構想と技術(手法)、教師としての学びの在り方などを、相当深く解明し、実践による検証もしてきている。今合宿研の課題は、今までの積み重ねに磨きをかけ、実践と研究の内容をさらに確かなものにし、子ども・父母・教職員に希望を与える内容のものにしていくことである。     (文責:加藤 久雄)

2.学級崩壊、いじめを超えて、自治的集団の形成へ

 学級崩壊・いじめを越えて、自治的集団の形成へ。その実践的な問題。個人指導に追われるか、または心理主義的、カウンセリング的な実践になってしまって関係性を問うていく集団づくりが一向に立ち上がってこないと言われる実践の状況を切り開きたい。

 教師が陥りやすい指導には次のようなものがある。

@形式的指導:子どもの言葉を無視して操作主義的に子どもをみる問題。形をつくればいい。子どもの側も受け入れやすい。そこでは、体罰すら肯定されることもある。

A精神的指導:「生徒指導」(=生徒を指導する)といわれるように、できないのは生徒個人の努力不足という見方(個人還元主義)を持たされていて、関係性でみることができない。

B教化的指導:子どもを大人の下位に封じこめる。子どもの力、子ども同士の力を信用できない。

 こうした指導の背景として以下のような事が考えられる。

・自らが自治を学ばず、上記のような教育の中で育ってきたので、それに経験主義的に執着してしまう。

・子どもの問題は教師の責任(「荒れ」の社会的背景を考えない)という図式でみられるゆえに、事なかれ主義で問題を閉じこめてしまう。

 一つ目には子どもを指導していくときに、こうした自らの指導自体を意識し問い返していくということが大切になるだろう。子どもの内面に共感的に関わりながら。

 また、子どもの内面をとらえようとしても、心理主義的な指導で終わるという問題がある。一見学級が「まとまっている」ようにみえたとしても、それはその教師との関係の中でのことである。問題が起きる度に繰り返される「周りの子は(その子が問題を起こしそうだと)知っていた。」という文言から考えるならば、大人にとって子どもの世界の問題は、子どもによって隠蔽されたままなのではないだろうか。

 とするならば、二つ目に子どもの世界に自治をつくるという視点がない限りそうしたことはなくならないだろう。自治の視点をとり、子ども自らがその世界で正義を行使できるようにしていくことが重要なのである。

 しかし、そうした視点があったとしてもそれはとても困難なことであるだろう。なぜなら、子どもたちは今「他者と現実の喪失」(「他人への関心と愛着と信頼感をなくしていることであり、自分がふだん生活している世界がどんなところであるかを実感できなくなっている」)のなかで「勝ち組」(強者)と「負け組」(弱者)という二極分化を強いられているからである。そのため、「強者」の子どもは「過剰適応」的になり、権威を持つものとそれ以外のものへの態度を二重化し人格の分裂を進行させていく。また、「弱者」の子どもは「学びの世界」や制度としての学校から「引きこも」るしかない状況に追い込まれていくのである。

 ではそうした状況を切り開く道はあるのだろうか。三つ目にそれは、子どもたちが自ら固有の集団を創り出し、その中で豊かな他者と現実との交渉を行うことでしかなしえないだろう。

 さて、ではそうした集団を創り出すちからはどう獲得されるのだろうか。発達的には以下の過程を通して獲得されていくと言われている。

 まずは幼児期前期における基本的信頼感の獲得である。次に幼児期後期における自己コントロールのちからの獲得である。そして、少年期における集団をつくり出すちからの獲得である。そして、思春期・青年期における参加のちからの獲得である。(もちろんこれはその段階で獲得できなければだめというわけでなく、現段階で、発達しそびれた課題を指導していくことが重要になる)

 こうした発達の課題を順次獲得しながら、その中で他者や現実と出会わせていくことが重要になるだろう。                                   

(文責:桂川 清)

3.共生・権利と総合学習について

 総合学習では、教師と子どもがともにテーマにそって現実を批判的に読み開いていく参加型の学習を軸にしている。テーマや指導内容が定型化され、決まっているのではない。自分たちを取り巻く現実のなかから、自分と仲間が必要となる学習課題を探し出すのである。その場合、学習の見通しを子ども自身が作り出すとともに、教師もともに複雑に入り組んだ現実をとらえる活動に参加する必要がある。そして、何を探求することが現代の子どもに必要な共通の知と技になりうるのか、総合学習を共通の学びの領域として位置付け、それに値するテーマを計画し、カリキュラム化することが学校の任務である。そこでは課題を読み開き、批判的に学ぶための情報と体験を周囲に要求していく参加に開かれた学習を展開していくことが重要である。

(1)総合学習の学びの視点

@画一的ではなく、生活・地域に根ざした学習内容をもつこと。また、地球的な課題に答える学習内容をもつことが求められる。

A学ぶことで人との関係がどうつくりだされていくかが重要である。学習は、知識を溜め込むもので終わってはならない。学ぶ過程で学校の仲間だけでなく、多様な人とつながりあり現実世界を見直していくのでなければ、現実への参加としての学習は保障できない。

B学びの結果・成果がただ評価されるのではなく、表現や発表の活動を通して生活を見直し、そのメッセージを仲間・地域・社会へ発信するような学習活動を重視する。

Cインクルージョン=最初から多様な人々を包み込んで共に生きる世界を築くという立場に立って学習を構想することが大切である。特に弱者の立場にある人たちを包み込んで共に生きるという視点が必要である。

D人ひとりの問題意識―班の中で疑問をしぼるー学級全体としての課題(テーマ)設定というように、各場面における対話、討論を通しての共同的な学習であること。

E権利の学習・・・憲法の平和的生存権、幸福追求権、子どもの権利条約の意見表明権などにおける「・・・への自由」を大切にすること。ここでいいう自由とは、「ひと(他者、死者)やモノへのレスポンスする義務を持っている。

(文責 河田 秀明)

4.学校づくり

 大きな改革を目の前にして、教師も学校も子どもも戦々恐々としている、しかし共感をこえて共に生きる「交響的」な仲間関係を誰もが求めているのではないか。

(1)従来の「学校づくり」のイメージからの脱却

 「学校づくり」というと児童会・生徒会や職場づくりのイメージがある。このイメージは中学校においては,すでに新管理主義的な現在の学校の様子を表わしている。ここではこれからの児童会・生徒会をどう考えていったらいいのかをとりあげてみたい。現在の学校における生徒会活動は強制的な躾(仲間の名を借りた)教育になっている。また,総合学習の導入と共に, 生徒会(学年生徒会)活動がボランティアへと傾斜してきている。合唱活動も同じで,文化活動とはいいながら精神的な自由権の保証されない活動となっている。

 一昨年度のテーマ「交響的な,多重な響き合う声」からいうと,多重な(いろいろな)声が出せなくなってきている体制といってよい。また,学校の職場が競争的なものになっていて,異議申立てができにくい状況がある。教師の力量が常に問われており,子どもたち同様に教師も追い立てられている,評価が全面に出た管理体制となっている。私たちはその中でどう生きていったら良いのか。その中での職場づくりはどうなるのか。
 様々な声が出しにくくなってきている状況を,特殊学級や心の部屋からみると,今起きている様々な矛盾は,結局一番弱者に降りかかって来ている。不登校の子・学力のない子・運動のできない子・様々な障害を持った子…にしわ寄せがきている。

(2)弱者の視点に立った学校づくり

 そういった意味で,私たちの学校づくりが徹底的に弱者の視点に立っているのかを問い続けることは,今最も大切なことではないだろうか。様々な子どもたちが生きている学校,そして生きることができる学校こそが「交響的な学校空間」ではないだろうか。

 そのような学校空間をつくりだした実践を幾つかあげてみよう。

 既成の概念に囚われない全校実践に「ノー掃除デー」がある。この結果,昼休みに委員会の独自な活動が出て来たり,主体的な取り組みが出てきている。また,会議の無い日の最終下校の時間をできるだけ遅くすることで子どもたちが遊べる場所を保障する取り組みもなされている。また,会議を必ず5時に終了するようにしている(細江実践)。また, 特殊学級での文化祭の劇の実践(上村実践)もある。

(3)多様な声を響かせる学校づくり

 多様な声が響かなくなってきている学校の中では,まず聞くことから始まる。子どもたちの声,教師の声,親の声,地域の声…もちろんこれらの声は様々である。不協和音も聞こえる。この声を聞くところから始めるしかない。教師も学校参加ができていない状況の中で,人権と民主主義を高らかに掲げて取り組んでいる実践がある。自主的なPTA活動を目標にし,原案がいつもPTAから出るという実践や,職員の立場に立って,今まで一斉に行なってきた社会見学や遠足や集会の期日や内容を各担任が決めている。(細江実践)

(4)新しい共同の芽を次から次へと生み出していく

 今ある組織の改革ではなく,新しい共同のグループを生み出していくこと。インフォーマルな組織を校外につくり,子育て共同を組織している実践。「わいわい子育てフォーラム」(加藤実践)出前懇談・相談。自由参加,開かれた懇談会をめざして。テーマ「どうやってストレスを解消しているか」など。(文責 上村 文隆、細江 剛)

5.学級崩壊といじめ、荒れを超えて交響的自治集団の形成へ

人間は常に他者、集団や社会との関係で自分を位置づけたり、その存在を承認したりして喜び、成長を得る。しかし同時にそれとの関係で悩み、傷つく。現在の青少年や学校に崩壊や荒れ、暴力的状況が広がりつつある周辺に、社会や集団の言論の力の衰退、学びからの逃走傾向、ひいては民主主義の危機を見てしまう。言論や民主主義の根底に必要なものとは、他者との間の表現・応答関係であり、それを媒介にして相互理解を創り出していくことである。人間は一人では生きていけないから、本能的に孤立を恐れる。現代のさまざまな青少年の事件に孤立の影がつきまとう。孤立とは、表現と応答の対他関係が成立しない状態である。一見暴力的な事実が集団の内部にないからといっても、そこに相互の存在の承認がないのであるから、真に平和的とは云えない。したがって真に平和的な集団をつくっていくには、相互に表現し応答し合う、多声的(Polyphonic ポリフォニック)な関係性の創出が不可欠である。様々な多層な質の言論が相互にその存在を承認しあいながら、応答し合う、ある時は激しくぶつかり合い、反発したり批判し合ったり、相互に影響を与えられ補助し合ったりしながら止揚していく、そのような民主主義の確立に向けて進展していく集団のイメージを「交響的集団」と呼んだのである。

 現代において青少年の暴力を向け合う、あるいは犯罪に結びつく状況、学びからの逃走傾向、これらの背後には、異質排除→周囲との回路を遮断する、あるいはされる→精神的孤立(感)→出口のない自己の不全感に悩む→ひきこもり→精神への連続的な打撃とストレス→反動、防衛としての周囲への攻撃というような必然があるように思えてならない。もしそうだとすれば、教育実践は、青少年のこの「無視、無関係、排除、孤立、暴力」の精神状況を「表現と応答、相互に影響し合う、連帯と友情の平和的地平」へと向かわせることのできる方向と方法とを持つ必要がある。そのような側面から、岐阜生研の実践をもう一度見直してみる必要があるのではないだろうか。

 上村氏のいう一昨年の基調提案に、すでに「交響的公共空間の創出」なる提起があったのだが、実は愛知の折出氏から「きわめて興味深い提案なので、もっと定義付けを厳密にかつ具体的に・・・」という指摘があったので、何とか具体的にしたいと考えたのである。岐阜生研は自治的な集団形成のために、表現と応答の関係を発達課題とも関わらせながら例えば身体接触を伴う少年期の交わり能力、さらに対話から討論・討議の育成というように実践的に追求してきた。例えば古くは桂川氏の「ロケットジャンプ」に代表される身体接触を伴う、「無条件の存在承認」を与える実践は、子どもと教師、さらには子ども相互の応答を引き出す結果につながり、存在承認を相互に確認する実践であった。加藤氏は「1・1・1物語」の中で、小学校低学年の子どもの発達要求を保障するような活動を大胆に展開している。かつ班づくりの側面では、ホーム(家族のように集団を求める子)とホテル(一人がいい子)の実践で柔軟に班づくり、つまり集団認識を育てる実践を展開している。

 中学では総合学習を舞台にして、かなり踏み込んだ創造的な実践を、学年レベルで展開できる可能性のある状況がある。それが単に活動主義的に、あるいは危惧されるような徳目主義的なものに陥らないよう自戒しつつ、そこに「班づくり」「リーダー指導」「討議づくり」を意図的に実践しながら「活動内容」「学び」「関係性」の三層のレベルでの変革を求め、多様な実践を蓄積、分析していくとよいだろう。とはいっても、まずは学年の教師集団が楽しみながら実践してみることであろう。

@班づくり中学では生徒会との関係もあって、班編制替えは年に一度だけであるところがほとんどである。教師の実践の自由を保障する意味で、ある程度の編成替えを認めている学校もある。これは実践上はたしかに縛りとして働くのだが、この一回の編成替え、二回の新しい班でどう集団を教えていくかは重要である。それと同時に生活班とは別に総合学習のための新しい組織(任意参加のものも考えられる)を導入していくことも考えられる。この班づくりで共通の目標や活動に取り組む中で、相互にその存在を理解、発見していくことをねらっていく。活動のカーニバル性を大切にしながら、学びやさらには相互の理解と発見による関係性の発展までを見通した実践をねらっていきたい。

 Aリーダー指導

先年度の田中実践「TOP」では、制度的なリーダーではない政夫という生徒が、実践の中でかなり重要というか決定的といってもよい動きを見せた。現在の閉塞的な中学校の状況では、総合学習もカーニバル的に構想しつつ、その関連の中で政夫のような暫定的なリーダーを教師が発掘・発見し、集団の利益を守るリーダーとして育てて実践していくことが重要である。問題なのは、はたして政夫のような制度的ではないリーダーが、どのような教師の指導に反応し、立ち上がってくるかである。総合学習の試みの中でそのような実質的リーダーを発掘し立ち上がらせていく教師の指導性とは何なのかが問われている。教師とリーダーとの間にどのような対話を成立させていくことで、リーダーは交響的集団の形成に深く関わるようになれるのか。あるいはリーダー集団の中にどのような対話・討論を築きだしていくことで、リーダー集団の中での相互理解や発見を促すことができるのだろうか。

 B討議づくり

本来、集団づくりとは教師の指導を縦糸とし、集団の教育力を横糸として構想されたところにその特徴がある。いわゆるカウンセリングの実践というのは、問題となる、あるいは指導の対象となる子どもと対話し、共感を示して癒しを与えたり、立ち上がらせたりする。最近では全生研の実践にも、このような傾向、つまり教師が生徒個人の指導に終始する実践状況が広がっているという指摘がある。しかしそれでは集団の横の教育力を紡ぎだし、それをもって集団自らが暴力を止揚し民主的な関係性を築き出すことはできない。

 討議づくりは集団の自主管理とも関わって、集団の力の所在が転換する、そしてしだいに民主的な力の行使を得られるようにしていく実践の側面である。現代の青少年が互いにその存在を認め合って平和的に生きることができにくくなっているとすれば、それは自己を認め理解し、同時に他者を理解する、あるいは理解まではできなくとも、その存在を承認する力や技が衰退してきているか、教育されていないことからきているのかも知れない。もしそうだとするなら、どのような実践が必要になるのだろうか。それは第一に子どもが相互に関わり指摘し合う関係をつくることだろう。

 例えば「よい子見つけ」や「相手としての仲間を絶対に批判してはならない、道徳的価値に子どもを浸らせる。」という方向で行われてきたはずの道徳の授業が、結果として創り出したのが現在の孤立と暴力の向け合いとしての状況ではなかったのか。「心の教育」を声高に叫ぶのであれば、このような事態を創り出した当事者としての責任を考える程度の、最低限度の謙虚さを持ち合わせていたいものである。

 個々の子どものよさを相互に認め合うようにしていくことは、実践的に重要であることは今更云うまでもない。ただ、我々の仕事が子どもを家畜化することではなくて、人間として自立していく方向であるならば、子どもが不利益の状況にある場合に、異議申し立てをすること、ヘルプを求めること、改善を求めて発議すること、それらが特に義務教育として重要な教育内容ではないか。だから「自分や仲間のよかったと思うことを交流しよう。」と同時に、「いやな思いは我慢せずに仲間や先生に伝えよう。自分や班やクラスの仲間が困っていたら、守り合おう。」「解決する方法をみんなで考えよう。」「仲間の呼びかけ、思いや考えに反応しよう。」などを訴えて、子どもが相互にぶつかり合い、出会えるような実践の土台を用意することが重要である。このことはさらに「学級の自主管理能力、自浄力をどのように育成するか」という実践的な筋道として提起できると考えられる。

(編集責任:田中 秀樹)