2008年度 岐生研基調提案


“子どもの「願い」「要求」に根ざした実践を進めよう!”



1、 岐阜県の教育の現状をA中学校の姿から考える。

 岐阜県のA中学校から出されている学年通信から岐阜県教育の今を考えてみたいと思います。ほとんど毎日のように出される学年通信。教育熱心であるとその数だけ見ると思わされます。その数の多さと教育内容が、本当に子どもを育てるものとなっていたら岐阜県中に広めたいものです。だが、ちょっと待てよ・・・その内容こそが子どもの成長を阻害してしまうものになっていないかというのが私たちの問題意識です。また、岐阜県中の学校がA中学校のめざしているものと同じ方向に進んでいるのではないか。A中学校はその極端な枚数と宣伝において分かりやすいだけなのではないかとも考えています。
 では、A中学校では、どんな教育実践が行われているのか見てみましょう。
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 <資料1> 1年学年通信 10月 日号から
   学年スローガン:安心して生活のできる学年
 気になる姿 (学級委員会での話し合い)
  ・時間に対してルーズ ・服装(シャツだし) ・不要物(携帯・財布・お菓子・制汗剤)
  ・廊下で鬼ごっこ ・忘れ物が多い ・・・・

 ここに挙げた気になる姿については、学年の生徒全てではありません。内容によっては、1〜2人というレベルのことかもしれません。しかし、学級委員がスローガン達成するためには、この1〜2人が許せないのです。みなさんは、どう感じていますか?(   は筆者が入れたもの)

   環境は人を変える!
 3年生を受け持っていると自分を追い込むために、自分の家だけでなく、市立図書館や塾の自習室を活用して勉強できる環境をつくる人も少なくありません。当然、うるさい中で落ち着いた生活はできるはずはないことと学習についても身に付くはずがないからです。このように環境というのは、とても大切なのです。
 そこで、上のような姿が、項目によっては一部の人かもしれませんが見られることをどう思いますか?このような環境の中で、自分たちが今後生活することをどう感じていますか?今の楽しさ学校生活の曖昧さ・いい加減さを許しながら、2年半後A中学校を卒業したならばどうなのでしょうか?来年度、先輩となった時、本当の先輩の姿なのでしょうか?・・・作文
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(1)「この1〜2人が許せない」から見えてくる「学校の環境を乱すダメな子どもだ!」
   というレッテル貼りの子ども観。


 環境は、人を変える。その通りです。より良い環境をつくっていくために、学校を構成する一人ひとりが思いを伝え合い、考え、行動していくのが学校教育のはずです。しかし、この学年通信では、「この1人〜2人」は、学校の環境を乱す不逞の輩とみなされます。環境を乱す悪いやつだとレッテルを貼られてしまうわけです。しかも、悪い奴を許すのかと他の子に脅しをかけているとも読めてしまいます。人間、悪いレッテルを貼られたら、認められてないと感じて、居直るか心を閉ざすかどちらかしかありません。上から目線で子どもを悪い奴・ダメな奴とレッテル貼りをしてしまいがちな現場になってはいないでしょうか。
 「この1人〜2人が許せない」という子どもの見方(子ども観)を変えない限り、明日の教育は見えてきません。この1人〜2人の許せないと映る姿を子どもの「SOS」or「異議申し立て」と捉えて子どもの話を聴こうというのが、私たちの立場です。声にならない訴えを出しているわけですから、子どもと一緒に話をする中で、生き方や学校の体制を考えていく中で、その子の苦悩・発達課題を共有する所に教育(実践)のおもしろさがあります。
 レッテル貼りは、人間としての共感を共にして立ち上がっていくという筋道ではなく、悪い奴を一掃しなければならない。粛正しなければならないという恐怖になり、排除が始まっていくのです。

 だから、次の方策として子どもたちの作文や意見による集団の「違反者への囲い込み」が始まります。違反者は、教師だけでなく仲間からも白い目で見られているんだぞと思い知らされます。一種の脅しです。「集団にはルールがあります。」「自分勝手な行動」・・・その通りです。その通りなので、違反者は反論できません。反論を異装などであらわしているのですが、それは聴き取ってもらえないので「悪者」扱いのまま孤立していくしかないのです。
                 ↓↓
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 <資料2> 1年学年通信 10月 日号

     学年スローガンの実現に向けて
       〜今、一人ひとりが真剣に考えてほしいこと(仲間の意見)〜

   『自分たちの環境を考える』生徒作文より
 ・・・このまま行くとシャツ出しが普通になってしまいます。シャツ出しを引きにやっている人は、逃げているんだと思います。シャツを入れるとダサイと言って逃げているだけ。他のみんなが頑張っているのに卑怯だと思います。学校は、集団 で生活しています。集団にはルールがあります。例え、一人だけがそのルールを破るだけで、その集団の輪が崩れます。だ から、自分だけならいいやという気持ちはやめて、みんなのことを考えてほしいです。

・・・他の子の作文続く・・

◆今回は、問題を投げかけ作文を書くという時間を取りました。もし、今後このような問題が起きた時は、学年全体で話し  合いをおこなっていきたいと思っています。一部の自分勝手な行動を仲間がどう見ているのか?今後どうしたらいいのか?
 学年としての方向を話し合いで確認します。
◆今回の話題(特に不要物)の中には、学級委員会で話し合いを行った時に分かった事実がありました。生徒作文にも『同じ仲間として注意する』という内容のものも少なくありませんでした。これは、仲間のことを真剣に考えている内容でとても嬉しいものです。しかし、自分一人で何とかしようとは考えないで下さい。多くの仲間とともにより良く環境を変えていくのです。ささいなことでも、疑問に思ったことは先生に相談して下さい。
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(2)岐阜県の進める「管理主義的調教教育」

 次に、時間・環境を整えるキャンペーンが始まります。やはり、パーフェクトをめざします。「1人〜2人が許せない」路線は変わっていません。班競争が、管理を徹底するための手段となり使われます。数字が0にならないといけないわけです。各班に10点が与えられるというのですが、どこで決まったのでしょう。なぜ、10点なのか?これを決めたのは、誰なのか?次々と疑問が浮かび上がってきます。
 子どもたちが、話し合って決めたものではなさそうです。上で決め、やれと下ろしてくる。いちいちなんだかんだ言うな。言われたことをやるのが、環境を良くすることなのだと。上意下達方式は、岐阜県そのものです。これが本当だと、この教育はまさしく調教であり、無道徳教育と言わなければならないでしょう。これを私たちは、「管理主義教育」と呼んできました。全生研がめざしてきたものとは、180度違うものです。

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 <資料3> 1年学年通信 10月 日号

   動き出し活動、中間報告
 後期役員の動き出しの姿、それに応える仲間の姿はどうですか?

 現在、学年の取り組みとして『時間行動』と『環境を整える』キャンペーン活動を行います。
  時間行動〔・2分前着席 ・給食の10分着席、15分配膳〕
  環境  〔・ロッカーの上にものを置かない。(朝の会始まる前に点検)
       〔・鞄をしまってから、朝の会をスタートする。(朝の会始まる前に点検)
       〔・授業や会のはじめに服装の点検を行う。挨拶前に学級委員が、
        「姿勢と服装を正して下さい」と言います。
        シャツだし・ボタン・名札を確認します。
      注意:名札のない人は、1時間目始まる前までに紙名札を準備する。

 この取り組みは、ただ点検をする活動でなく、どの学級もパーフェクトになるように行うものです。そのために、学級の係の人が積極的に動き協力することが必要です。

 右に今までの得点を掲載します。各班に10点の得点が与えられ守れなかった人の延べ人数を引いていきます。自分たちのためにも厳しく見届けをして厳しく呼びかけていきましょう。

   組  班  24日 25日  26日  27日
   1 1班  8  10  4  7
     2班  9   7  9  9
     3班  9  10 10 10
     4班  8  10  9 10
     5班 10   8  7  8
     6班 10   7 10 10
   2 1班 10   9 10 10
     2班  8   9 10 10
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そして、資料4に行き着くのです。
 「フリーター・ニートの問題点」です。フリーター・ニートの問題点として、正社員と比べて「ダメな人間」としてのメッセージとして書かれています。将来、フリーター・ニートになると給料も低いし困るぞ!ダメ人間にならないために正社員をめざせ!というメッセージです。
 なぜ、フリーター・ニートと呼ばれる非正規労働がこれほど広がっているのか?非正規労働で働かされている人たちの思いは、どんなものなのか?という「社会科学の視点」「人間としての視点」はありません。子どもをみる時の見方と同じレッテル貼りです。将来の労働者たる子どもと共に「今の社会」の現状を見つめ、考えるという教育の視点は残念ながらありません。

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 <資料4> 2年学年通信 7月 日号

  職場体験学習に向けてW   フリーター・ニートの問題点
◇収入面の正社員との比較
         平均年収       生涯年収    年金(月額)
 正社員    387万円   2億1500万円   14万6千円
 フリーター  150万円     5200万円    6万6千円
 
◇働き方について
 フリーターとは、15歳から34歳までの人(女性は未婚者)で、アルバイト・パートの仕事をしている人や決まった仕事も家事も通学もなくアルバイト・パートを希望する人をいいます。全国で約213万人いると言われています。ニートとは、教育も受けない、仕事もしない、訓練も受けない人を言います。全国で約64万人いるといわれています。

 では、正社員・契約社員・アルバイト(フリーター)のメリットとデメリットの違いを載せます。
 
<メリット>
・正社員の場合は、収入が安定します。(ボーナス・ベースアップ・昇進・社会保険の加入)
 責任のある仕事を任される。技術・技能の向上のために知識が身に付く。

<デメリット>
・正社員の場合は、拘束される時間が決まっている。
・契約社員の場合は、契約期間が終了すると次の仕事を探すことになる。
・アルバイトの場合は、安定した収入が得られない。
 (ボーナス・ベースアップ・昇進・社会保険の加入がない)
 技術・技能の向上のための知識が身に付かない。責任のある仕事を任されない。仕事を長く続けられないので、いつも仕事を探すことになる。

 以上、説明したとおり、正社員とフリーターとでは、働き方によって収入や技術の向上のための知識が身に付く、つかないなどの大きな差が生じることになります。ちなみに、一生涯においての収入を比べてみると、正社員は、約2億1500万円、フリーターは約5200万円です。フリーターの一生涯の収入は正社員の約4分の1です。

◇フリーターやニートの問題点
・安定した収入が得られない。(上記のように正社員に比べ、低い収入)
・自分自身の技能や技術が向上しない。(アルバイトはいつまでも同じ仕事)
・経験不足で、自分自身のアピールができない。
・社会を支えるものの減少。
 (低所得による低い納税額→国などの収入源。社会保険への未加入によって制度の維持が困難)
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 たった4枚の学年通信で上のような判断を下すのは、早計ではないかという声が聞こえてきそうです。しかし、たった4枚、されど4枚。ここに、岐阜県の教育の姿がいみじくも現れているというのが実感です。

 この調子で、毎日のように家庭に学年通信がおろされてくるのです。この通信で、保護者は、いっしょに子どもの問題を考え、教師と力を合わせて子どもの声を聴き取り、何をしていくことが大事かを共有する関係を築いていけるでしょうか。
 答えは、否。体制に従っている保護者は、あの子がいるから学年が良くならないんだという見方になります。そして、家庭ごと地域から孤立していくという構図になっていきます。保護者は、子どもに「あなた、何やってんのよ!」ときつく当たるしかなくなり、子どもとの距離はますます離れていってしまいます。子どもは、理解者を失い自分を責めて「閉じこもる」か「荒れる」しかなくなります。


(3)2分前着席は、学校版「QC活動」。人権教育ではない!

 日本を代表するある会社では、小集団による品質改善の「自主的活動」というQC活動が行われています。生産性を上げることが活動の基本です。上の中学校でいけば、全員達成が目標になるわけです。ダメな奴は、許さない。自分たちで決めたからということで、お互いが見張り合う関係になるのです。目標達成のために、声をかける。目標達成が至上命題になり、できなければ「自分たちの努力が足りないからだ。」というまとめになります。そして、さあ、次、どう取り組むのかということが話し合われるというシステムです。
 企業管理方式が、そのまま学校現場で行われているといってもいいのではないでしょうか。できないのは、ダメな奴。排除の対象です。しかも、安くあげるために非正規雇用を推し進める。使い捨てです。岐阜県中の中学校で、2分前・3分前・1分前着席が行われているのではないでしょうか。しかも、体育祭の取り組みの、生活得点として競わされるという形で。一度、この学校版QC活動を洗い出して、その意味を考えなければいけません。現場では、当たり前のようにして行われてしまっているのですから。
 一人ひとりを人間として大事にしていく。その為の集団と個人のあり方を研究してきたのが、全生研です。2分前着席の是非をぜひ子どもと共に討論の場にのせてみることから岐阜県の教育は考えていかなければならないのではないでしょうか。

 日本人の特徴は、「体制順応主義」です。教師も学校体制の中でものを言えない雰囲気の中で生きています。その雰囲気の中、その体制に従わないことを言うと、「あの人なに!」と言われる恐怖と闘わなければなりません。家庭でも地域でも同じです。しかし、です。おかしなことはおかしいという声をあげていかないと子どもに未来を託すことはできません。戦略と戦術をもって職場から浮きながらも「あの人の言うことには一理ある」という世論(同僚性)を創り出していくことが「未来を創り出す実践」となるでしょう。


2、 2007年度の岐生研の実践から

 わたしたちは、<1年間の集団づくりの見通し>の重要性を再確認し、2007年度の学習会をすすめてきました。岐生研基調提案では、子どもたちが管理的・抑圧的な環境のなかでバラバラにされていく状況を「生きづらさの中で壊れかけていく子どもたち」と規定しました。この困難状況を乗り越えるためには、子どもたちが他者とつながっていくことが不可欠であると考え、「個と集団の関係性に着目した、構造的な実践をすすめる」ことを1年間の追求テーマとしました。そして、学習会ごとに常任委員会から明確な「ねらい」を打ち出し、回を重ねるごとに、より鮮明で主体的な取り組みが展開されています。この成果を喜ぶとともに、今後の方針を明確にしていきましょう。

(1) 春の一日学習会「晴美を通して集団に交わりのちからを」(今光正和)

【<バラバラな学級>から<居場所のある学級>への発展】を見通す実践として、レポートが提起されました。「集団がスタートする時点で、集団との関係性において子どもをどうつかんでどのような指導構想を立てるか」という視点で分析を行うなかで、
@)個への注目はあるが、集団との関係性の把握が不充分である。
  そのため、子どもたちの関係性を変革するチャンスを逃している。
A)子どもの事実にそくして構想を書き直していないために、指導構想が硬直して、
  子どもたちの願いに沿うものとなっていない。
B)そのため、子どもたちの気持ちが「実践家の期待する子ども像」を演じることに向かってしまい、
  かえって抑圧を深めている。
 という指摘がなされました。
 このことから、以後の実践研究の重点として、<個と集団の関係性に着目した構造的な実践をどうすすめるか>が浮かび上がってきました。

(2) 秋の合宿研「隆の引退宣言」(安田吉輝)

≪「発達障害」をもつ子どもの「問題」およびその子ども自身をどう捉えるか≫
 を切り口として、個人指導と集団指導の統一、保護者とのかかわり方・保護者同士のつなぎ方を明らかにする実践分析を行いました。
≪荒れ」や「問題行動」によってアクティングアウトする子どもを軸に、個人指導と集団指導の統一を実現する指導≫のすじみちを明らかにするものとして、レポートが提起され、「子どもたちへの共感的指導の実現」「個人指導と集団指導を統一的に展開する実践」のふたつの視点を中心に分析しました。
 安田実践は、子どもが示す「教師にとって困る行動」を、「問題行動」ではなく「子ども理解の手がかり」として受けとめ、子どもが幸せに生活するための指導を探ろうと苦闘するものでした。特に、「引退宣言」の場面では、「隆くんにとって体育祭はどのような場なのか」という問いを立てたうえで対話的に関わり、隆くんが「『荒れ』や『キレ』ではない方法で折り合いをつける(生きづらい世界とつき合っていく)」やり方を見つけようとしていました。
 また、子どもどうしの関係性に着目し、子どもたちが主体的にかかわりあうための環境設定に自覚的に取り組んでいます。ラケットゲームの場面では、隆にかかわる子どもとの対話を通して読みひらきの材料とし、引退宣言の場面では隆のことばをきっかけにして子どもどうしをコーディネートしようと働きかけています。共感的な指導をベースとして互いにはたらきかけるような子ども集団づくりを日常から意図しているからこそ、学校の枠組みや実践者の意図と外れたアクティングアウトに対しても、集団をつなげていこうとする視点で対応や指導を構築できたのだといえます。わたしたちが実践を深めるために重要かつ有効な視点を持ったレポートでした。

 ただし、「引退宣言」にかかわって、体育祭という学校体制への従属が強く求められる行事の場での指導の妥当性が問われているともいえます。この実践は隆くんに体制への適応を求めているのではないかということです。「もうがまんできません」と訴えた隆くんが「荒れ・キレ」の状態に陥って自己肯定感情をさらに奪われるのは明らかであり、別のあり方で危機を回避する(「折り合いをつける」)ことを実現した点は確かに評価できます。
 一方で、隆くんに「体育祭に出場しない」ことを提案し自己決定を促すという選択肢を考えたかどうかという視点も必要です。「出場しない」ことの是非や価値(指導の妥当性も含む)はともかく、その発想をしたうえで指導を構想したのかどうかを問うことは、「問題行動」を示す子どもの願い──子ども自身が言語化できていないものも含めて──をわたしたちがどうつかんでいくかという課題を示すものでもあります。
 加えて、「子どもたちの関係性」の視点から見ると、ラケットゲームのできごとを通して隆くんの自傷が減っていったのは、修次をはじめ周りの子どもたちが「我慢」をしたからであって、集団の関係性が深まったとは言えないのではないかという問いが立ちます。この指導が、太田さんの「隆はなぜ我慢できないのだろう」という気持ちに応えるに到っていないことも見逃すことのできない重要な点です。
 手立てとしては、隆くんの苛立ち(困り感)を集団で読みひらいたうえで、新たなルールを設定する方法もあったのではないでしょうか(構成的ルールの確立)。集団の関係性を豊かにするには、焦点をあてた子どもに寄り添うことが大前提であるのはもちろんですが、つながってほしい子どもたちの思いをつかんで相互対話的な関係をつくる見通しを持つことが必要です。この点はわたしたち全員が実践上の課題として重く受け止めるべきものです。

 これらの実践分析から、以下の二点が実践を深めるうえで重要であることが明らかになりました。
○子どもたちが主体的にかかわりあうための環境設定をすることで、子どもどうしで読みひらきを行い、関係性を変化させていくことを見通す。
○焦点を当てた子どもに共感するだけでなく、その子どもの願い、その子どもにかかわる子どもの願いをつかんで、相互対話的な関係をつくるための場や活動の設定をする。

3、 子どもの「願い」「要求」に根ざした実践を進めるために (08年度:岐生研の研究実践課題)

<1>願いを聴き出す

(1)先生と子どもがゆっくり対話をする時間をつくりだす。

 管理をすることだけに目がいくと、出来るか・出来ないかで子どもを見てしまい、子どもの願い・要求がみえなくなります。私たちは、子どもの願い・要求を聞き出し、組織をしていくことを通して子どもの関係性と認識を豊かなものにすることをめざしています。
 だとすると、この忙しい最中ではありますが、まず教師と子どもがゆっくりと話す時間を創り出さなければなりません。この時間を作ることが闘いになります。直接話す、ノートを通して話す、友だちを介して話す。いろいろな手段を駆使して子どもの願い・要求を聞き取ることに努めましょう。
  「大きな耳、小さな口、優しい目で」  (「フルスイング」より)

(2)「発達途上人」としての子ども観を育てる。(レッテル貼りをしない。一人の人格を持った存在として。)

@)同僚との対話を大事にしていく。
 実践は、一人で出来るものではありません。職場の仲間に支えられてはじめてできるものです。理念で教師は一致できません。しかし、子どもの現状を交流する中で、どう実践していくかを話し合う中ではじめて共同が生まれます。そして、その話し合いを通して、子どもをレッテル貼りするのではなく、良いところもまだまだ力をつけなければならないところもある、発展途上人だという確認をしながら子どもを応援していく必要があります。同僚と話し実践を一緒に行っていく中で繋がっていく。これを目指さなければ今の管理主義教育に対抗することは出来ません。

A)保護者との対話を大事にしていく。
 同僚はもちろん、保護者も実践に対していっしょに考え歩んでもらうべき仲間です。子どもが育つには、保護者の責任3分の1,子ども自身の責任3分の1、教師の責任3分の1が必要です。3分の1理論です。モンスターペアレントと言われる昨今ですが、怪物なんて言われていい気持ちがするわけがありません。子どもの幸せを願って腹を割って話し合えなければ子どもの明日はみえません。きっと、保護者も辛いこと、苦しいことの中で必死なのだという理解が必要です。そこを丁寧に聞いていくことから始めましょう。きっと分かり合えるはず。それを信じて、やっかいな保護者だという捉え(レッテル貼り)だけは止めましょう。

<2>「願い」・「要求」から集団の取り組みへ!

(1)学級や学校全体で対話・討論をしていく。

 自分の思いを伝えられない子どもたち。いや、教師自身も職員会で話せなくなっています。個の「願い」を集団の「願い」・「要求」に高めていくことが次の課題になります。子どもの「願い」・「要求」をつかんだら、その要求をかなえるために活動を組織していきます。そのために学級や学校全体で話し合いをいていく必要があります。これが、今の学級・学校活動の中にありません。所与のものとして与えられたものを疑問を持つことなく従順に守っていくことだけが求められている学校において、その活動の意味を問い自分たちの活動を創り出していくことが現在の闘いです。

(2)学びと自治の統一をめざしていく。

 活動の意味を問うていくこと、これが学びです。学びと共にその活動を参加に開かれた自分たちのものとしていくこと、これが自治です。授業においても教科外活動においても、学び(認識)と自治の視点から見直してみることから始めていきましょう。
 特に、全生研では学びというと「日常の生活からの学び」や「総合的な学習」に偏っている気がします。普通の授業時間における「学びと自治の統一」とは、どんな姿なのか。教科実践もどんどん提案していけると学びのイメージが広がっていくと考えます。よく「批判的な学び」といわれます。これも、授業実践の具体的なやりとりを目に見えるように提出して、みなさんと共に検討してみたいものです。

 問題は、レポートになかなかできない実態です。こんな授業実践をしてみたい!こんな行事をこうとりくみたい!と思うイメージを具体的に描き、提案していくことができてないことではないでしょうか。子どもの実態から出発して、逃げないで実践していく私たちの明日を信じて子どもと同僚と共に歩んでいきましょう。

     文責(稲垣・今光)