岐阜生研 2004年度 基調提案

対話・応答しあう子ども集団づくり

2004.5. 基調提案作成委員会

1.子どもと教育・学校をめぐる状況(2004年)

(1)はじめに

 2001年、2002年、2003年の基調提案では、今、学校のなかで起こっている全ての事態は、憲法・教育基本法改悪による「有事体制国家=戦争国家づくり」に向けてのものであること。それに対し「1ミリたりとも後退しない」(辺見庸)決意を固めつつ実践・研究を進めていくことを提起し続けてきた。
 2003年度の基調提案では、具体的には次のような実践を追求していくことを提起している。

 @(暴力を超えて)平和的な関係性づくりのための「対話のひろば」をつくるために、
   どのような手立てでどんなことを話題化しながら展開していくか
 A 参加と自治に開かれた「学び」をどう創り出すか。
 B 子ども・父母・教職員による学校協議会づくりへ向けた実践を、どう意識的に追求するか。

(2)対話・討論実践を軸にした子ども集団づくりの展開を

 この数年間、岐生研が提起してきたことの正しさを、竹内常一氏は『生活指導2004年4月臨時増刊号、「子ども集団づくり」について考えよう』で、次のように語っている。
 
 @ いま「教育改革」は憲法・教育基本法の改正を核にして、
   教育の新自由主義・新保守主義的な再構築を強引にすすめている。
 A だから、その一つひとつを全体構図との関連でとらえることが大切になる。
 B 文部科学省が整然とした「教育改革」の図面をもっていると思いこむことはない。
 C 手を替え品を替えて攻めてくるところに特徴がある。
 D 子ども集団づくりは学校づくり・地域づくりである。
 E 子ども集団づくりは、「教育改革」にたいするきわめて実践的な「対抗案」というか「戦略」でもある。
 F 子ども集団づくりは、子ども集団の過去・現在・未来を展望するものとして提起されている。
 G 子ども集団づくりは、地域教育協議会・学校協議会への子ども参加を展望している。
 H 基調は、これまでの組織的な集団像を一面ではひきつぎながらも、
   ネットワーク的な集団像を取り込む必要を提起していた。
 I どのような子どもたちの生活・学習要求に着目して、どのようなネットワークをつくるのかが問題となる。
 J 子どもをも構成員とする学校協議会をつくるまえに、
   もしかしたらこれらの人たちをふくむ開かれた教職員会議が組織される必要があるのかもしれない。
 K これらの人たちをふくむすべての教職員の協同をつくりだすのが校長本来の任務ではないか。
 L 学級担任もこれらの人たちのコーディネイターとなることが求められている。

  竹内氏の提起は、わたしたち教師が対話・討論の力に磨きをかけ、すぐれたコーディネイター・ネットワーカーとしての力量をつけていくことを求めている。この提起に誠実に応え、対話・討論を軸にした子ども集団づくりを豊かに展開し、子どもらの未来展望に共に参加していこうではありませんか。


2.今なぜ対話か

 近年の岐阜生研の研究会で報告された実践をみると、飛騨の中畑実践、中島実践「何でおればっか叱るんよ」、青木実践「よしくんとの付き合いを通して」、可茂の福井実践「認め合い、支え合う人間関係」など、比較的新しい若い実践家が意欲的な提起を行ってきて頼もしく感じられる。

 実践の内容は、かつての細江実践「飼育祭り」というようなカーニバル的な自治活動の指導ではなく、葛藤・ストレスからくる問題を抱えた子ども・生徒への指導が主題である。いずれの実践に登場する子ども・生徒も、問題の背景が単純ではない。指導の対象となる子どもは、発達のもつれを示しており、家庭や大人、周囲との関係が抑圧的であるために、強度の精神的葛藤・ストレスを抱え込まざるを得なくなっている、したがって学校社会では本能的に葛藤・ストレスをそれ以上抱え込まないために「荒れる」「切れる」などの問題行動を表現するようになっている。このような子どもが年々増え続けているような気がするし、抱えた問題も深刻化しているように思える。それは家父長的な家庭や学校の過度に競争的・管理的な体制との関係性の中にあったりして複雑で重層的であり、指導の難しさを感じさせるものばかりであった。が、しかしそれに無鉄砲といってもよいほどに大胆に、かつ継続的にねばり強く挑んでいるという点でも、また事実としてこのような子ども・生徒の状況が岐阜でも全国でも、ごく一般的に広がってきており、その実践研究が求められているという意味においても、貴重な提起であったと言える。

 例えば福井実践は、過度に競争的な秩序が支配する学校体勢の中で、それに飲み込まれていくことなく、学年主任の平井氏と担任の福井氏が共同しながら、さまざまな困難を抱えた生徒と学級を、教師と生徒達との集団的対話によって出会わせ、個と集団の認識を変革していった貴重な報告であった。特にこの実践では、一人の教師が自己の独善で実践するのではなく、そうかといって学校体制に無批判に飲み込まれることなく、あくまで自己の実践と学校のあり方を相対化し、学年主任と共同しながら実践を進めている点が教訓的である。これは他の実践でも見られる傾向で、実践家は多かれ少なかれ体制とのスタンスをどう取るかは問われねばならないだろう。

 さてこのように学校や教室で特別なケアを必要とする子どもが多くなってくると、個々の教師がそれぞれの考えや思い、方法で対処していたのではすまなくなる。当然学校のシステムが必要になる。近年は不登校や特別にケアを必要とする生徒が増加しているため、教育相談的な対応が重視されるようにはなってきている。しかし逆に個別にケアを必要とする生徒の増加が、一般の他の生徒の荒れにつながることを恐れるからか、支配的・競争的な秩序はますます強化される方向も感じられる。また教育相談が、形をソフトに変えた新たな支配として発動されていく場合も考えられる。

 このような情勢の中で、我々はまず「対話」を生活指導実践の基軸にすえようとしている。子ども集団づくりは教師の指導を縦糸、子ども集団自身の持つ教育力を横糸として織り上げられていくのであるが、子どもが表出させている行動やその背景の複雑さを考えると、縦横ともに今まで以上に丁寧な指導が必要となる。これは子どもや彼を取り巻く集団との間に対話的な空間をいかに創出するかという課題となる。

 別の言い方をすれば、今日の教育不成立の指導の側から見た要因とは、「対話の不成立」であり、今まで以上に生徒にも教師にも人間として共感し、意図的に対話を成立させていくことが難しくなってきているということではないだろうか。もしそうだとすれば、「対話の不成立」はますます異質な者の排除と孤立、問題行動の激化や、その結果としての権力的関係の強化につながっていくだろう。

 ただし、一口に「対話」といっても「対子ども・生徒」、「対学級集団」、「対同僚職員又は管理職」、「対リーダー(集団)」、「対保護者」などさまざまな実践場面がある。それぞれの実践場面で、支配と被支配のような権力的・暴力的な関係ではなく、民主的で共闘・共同的な関係をどう創っていくかが私たちの大きな実践課題である。実践家としての自分が課題としている対話の場面をリアルに構想し、実践し、そしてそれらを記録に残して「こんな意図で彼等とこんな対話をしたら、こんなことになったがどうだろうか。」というような実践提起を期待したい。

3.対話から何をつかんだか

 ところで指導としての対話とは、どのような行為を指すのだろうか。対話とは相手と話し合うことを通して、相手の抱えた問題や心情、状況を調査・分析・把握するために行われる。また相手との対話から分析してできた、仮説的指導構想に基づいてメッセージが次なる対話の中で発信される。つまり対話では対象をどのようにとらえ、どのようなメッセージをどんな形で発信していくことが有効なのか、実践的に可能なのかを明らかにしたいのである。かなり以前から岐阜生研では実践記録のリアリティー、「事実性」というのを重視して分析してきた。つまり分析では特に教師の指導言や子どもとの対話から、教師がその子どもをどのように捉えたのか、その捉えとそれに基づいた具体的な指導言とが妥当であったかどうかを集団的に検討してきた。

 しかし最近の実践分析では、やはりこのような対話がなかなか進展していかないような状況が現れてきているようである。例えば実践のはじまり、つまり子どもと出会った頃の対話と、それからしばらく後の対話では何かしらの質が違ってきているはずである。出会った頃の子どもは教師にある不安と期待をもっている。「この先生は私を助けてくれる、分かってくれる、私の話を聞いてくれるかも知れない。」「この先生は、やはり今までのように私を支配するかも知れない。でもしないかも知れない。」だから子どもは本能的に教師を試験にかける、対話や行動の中で。先生に失礼なことを敢えて言ってみたり、自分の家庭での寂しさのようなことをチラッと話したり。そして隠れた権力性、暴力性を暴いていく。逆にこのような対話の中で、子どもは信頼するに値する他者の存在を発見していく。そうするとしだいに対話の中での、言葉の背景にある教師との関係性が質的に変化してくるのである。

 例えば2002年の春の学習会での飛騨の中畑実践では、「としくん」という子どもが登場している。彼は班や学級の子どもとトラブルを次々に起こし、中畑さんをイライラさせる。ドラブルを起こしてヘルプを発信し続けるとしくんと、彼と出会おうとするがなかなか対話と出会いの糸口が見つからずに苦悩する中畑氏。このあたりのとしくんや学級との対話は、『としくんに「よい子」を求める』という道徳主義的な関係性を、としくんの側が拒否し続けたとみることもできるのではないか。

 しかしこの実践記録の終末の対話では初めのものと比べて、としくんと中畑氏との関係性は大きく変化している。ふたりは顔を合わせればハイタッチするような、相互に信頼し会う関係になっているように見える。残念なのは、どのような指導や対話の中でその関係性の組み替えが行われたのかが記録にないのである。記録には「時にはふたりとも泣いて喧嘩したことも何度かあった。」とあるが、このような激しいやり取りも含んだ対話の成立もあり得るだろう。この対話の中で、としくんは中畑氏を拒否する必要がなくなったとすれば、としくんの中畑氏についての認識が変わるような何かがあったはずである。つまり激しいやり取りの中で、中畑氏のとしくんに対する見方や要求そのものが変わったのではないかとの疑いが出てくる。

 このことは中島実践での平野君についても云える。中島氏は反抗的で扱いにくい平野君に、手を焼きながらも誠実に出会おうとする。しかし「学校的なよい子」になってほしい、という視線で彼に向かう限り、彼の教師に対する認識は変わらないし、対話の中にある関係性も変わらないだろう。

 これらの家庭的なトラブルなどを抱えて特別なケアを必要とする子どもは、はじめから肯定的な認識を大人や周囲に持っていることが少ない。したがって彼との対話の中で、自分や周囲に対する認識を変え、共同的な関係を創っていけるような対話を実践の軸に据えて研究していきたいのである。

4.「対話」から「討論」そして子ども集団づくりへ

  「対話」は、さらに教師と他の生徒や集団、リーダーとの間でも構想される必要がある。ここでも対話の中で、教師は他の生徒が彼のことをどのように認識しているのか、その意味を掴み、彼の認識の変革が集団との間で相互に起こるようにし向けていくのである。特別なケアを必要とする子どもと教師との一対一の対応に終始するのではなく、集団の側に開いていくのである。つまり単に教師とその子どもとの間の認識、関係性の変化にとどまらず、それが学級集団の彼との関係性の変革を呼び起こし、学校との権力的な関係の解体と再構成としての自治的活動の創造へと構想していきたい。


討論資料(1)

対話が成立する要件

文責 河田 秀明

1.対話は、双方向性である

 教師が子どもとの対話をしようと試みるとき、子どもが嫌な顔をする時がある。その原因の一つは、教師との対話は、「先生の一方的な説教」であると経験的に思えるからであろう。子どもの言い分を聞くと言いながら、実際の対話時間の多くは教師の話が占める。これでは、子どもが不満に思うのは当然であろう。対話は、一方通行ではなく双方向性である。しかも、うまく自分の思いを語れない子どもが、多くの時間を必要とするのは当然である。対話の配分時間を考えれば、子どもが三分の二くらいで、対等な対話ができると考えた方が良いだろう。

2.対話は、真理を反映した合意である

 子どもが教師との対話を嫌うことの二つ目の理由は、「教師の価値観の押し付け」にあると思われる。子どもと対話する時に、教師は「自分の側に正しさがある」という前提で話をすることが多い。だから、子どもに充分な時間を与えて聞いた後でも、「君の話は良く分かった。でもな・・・」と、教師の考えを述べ始める。それは、いつしか子どもへの教師の価値観の押し付けになっていくのである。確かに、教師は子ども以上に物事の道理をわきまえているであろう。しかし、子どもの世界には、大人とは違う論理がある。「未熟な子ども」に教えるという接し方では、子どもとの対話は成立し難い。確かに、対話には真理(何を真理とするのかは、論議が必要ですがここでは略します)が反映することが望まれる。しかし、時には真理を追究することよりも、合意を優先することが大切な時がある。「君のその考えについては、先生は賛成できない。でも、君にはその点については、譲れないものがあるのだろう。今はお互いが納得することは難しそうだから、その点については、保留ということにしておかないかい。後の点については、お互いが納得できたから、約束したということでいいよね。」という合意で対話を終えることもあるだろう。

3.対話は、人格的交流である

 対話は、単なる情報交換やコミュニケーションではない。また、ディスカッションとかディベートとかの論戦でもない。これらも、対話がもつ小さな側面であると言えるかもしれないが、これらは、言語と論理の交換がその中心任務であるという点では、真の対話とは言えない。対話には、相手のことを大切に思っているからこそという面がある。どうでも良いと思う相手とは、対話する必要性は生まれないのである。つまり、対話には互いの人間関係の形成という面がその要素となるのである。しかし、このことは逆説的な意味を持つことになる。この点は、ちょっと考えてみれば分かる。例えば、対話は、時として激しい批判、意見の対立を生む。しかし、それでも互いがその衝突を受忍していくことができるのは、互いが信頼する関係にあるからである。もし、そういった信頼関係が存在しなければ、簡単な言語のやり取りでさえも、誤解やトラブルを生むことになる。つまり、対話の成立には、互いが形成してきている人間関係が深く関わってくるのである。だとすれば、対話には、その成立要件として「人格的な交流」がその主要な要素となっていると言える。

 ところで、このように考えてくると、対話が内包するもう一つ逆説的な関係が見えてくる。対話の成立要件としてあげた教師と子どもの信頼関係は、その2者関係においてのみ形成されるわけではない。教師と子どもがどのような集団を形成しているのか、その両者が共有する集団(他者)に大きく影響される。優れた学級集団をつくりだす教師を子どもは信頼するものである。一方、優れた学級集団は、教師と子どもとの個々の対話によって生み出されていく。ここに対話がもつ、もう一つの逆説的な関係があるのである。

 今年の岐生研が対話を実践の基軸にすえようとする意味は、こうした対話のもつ2重性を重視するからである。「優れた実践記録には、優れた対話の場面が必ず登場している」のは、こうした対話の2重性を象徴しているからなのだろう。今年のレポートには、対話の場面をできるだけ多く書き込んでほしいと思う。


討論資料(2)      学校協議会を遠い見通しに                        加藤

 10年ほど前から、「弱者・少数者の視点、人権と民主主義の視点、共同と共生の視点から、ものごとをラディカルに問うこと」こそ、わたしたちのスタンスだと考えていましたが、照本先生の講座や皆さんの意見から、そのスタンスの真っ当さを改めて確認することができました。        

基調提案に書いた「学校協議会」の件ですが、とても大事なことなんですが、とりわけ岐阜県では気が遠くなるほど困難なことだと、どこかで感じています。(肝心の教職員の自治すらないのですから)これまで、学校を変える、職場を変えることにわたしなりにかなりの力を注いできましたが、茜部小と市橋小での体験を通して、これほどしんどいことはないと思っています。

照本先生の表現では「人とどうつながるか、そういう場をどうつくっていくか(民主主義を守る最前線のたたかい)」。金沢大の山本先生の表現では、「それ自体が生きる支えとなる関係性」。わたしの実践の重点は、4年前からそこに置かれています。(お母ちゃん・お父ちゃんらと一市民として飲んだり・食べたり・歌ったりするこの世界は、新たな発見の連続で、とても楽しいのです。)

照本先生もボソリと言ってみえましたが、今の学校のワクの中では、それはできません。学校の外からそれらを創ることも含めて、最終的には、子どもの最善の利益・子どもの意見表明を中軸にした「学校協議会」に結実させていく。そんな展望を持ったらどうかと思っています。

「学校協議会を遠い見通し」にしながら、今、わたしたちにできることからの接近をどう実践していくのか。そんなことを提起したかったのですが・・・。皆さんの意見を聞かせてください。 



討論資料(3)       親との協同について

桂川 清

1.方針

(1) 教師が自分自身を完璧でないものとみること。
(2) 子どもについての悩みを出して共有できること。
(3) 学校自体を相対化してみること。        
(4) 子どもの「問題」を、親の責任に矮小化しないこと。
(5) 「問題」を教師が自分一人で抱え込まないこと。 
(6) 親は別の視点を持つ人として尊重するという見方など。

2.実践

(1) つながりの手だて

@「読み聞かせ」 「読み聞かせ」による日常的な親の学校参加と親子の交流。(資料1)
A「親ノート」  親と学校、親同士をつなぐ。(資料2)
B親とのサークルづくり
・家庭訪問(4月、5月)での親のサークルの必要性、楽しさの対話とリーダーづくり。
  自由参加型の徹底。(「無理せず、気楽に」が合い言葉)
・まず第1回目を開く。
・一人ひとりが言いたいことを持っているはずだから、話しやすい雰囲気作りをする。聞くことを大切にする。
・気楽なおしゃべりをしつつ、内容的には、協同し現実をかえられるものも考えていく。
 またそれを通して、仲間の良さや自分の力に気づかせるものを考える。
 (「30人学級」の署名、「読み聞かせ」での学校参加、卒業生を送る会への合奏での参加、「父親と語る会」づくりなど)
・「茶話会」の内容報告と次回の連絡。(順番に書く)を行う。(学級通信で報告)
・日時を参加者の都合のいい日を聞いてつくる。
・PTA活動との協同の道筋づくり。
(「読み聞かせ」や「茶話会」を「母親委員会」だよりで宣伝。それにより読み聞かせの他学年への広がり。
「茶話会」、「親ノート」の紹介。会の親による「校長との懇談会」への参加。服装自由化についての意見を話す。
「父親と語る会」→ PTAで「父親委員会」成立。)   (K小での実践より)

(2) 今までの実践

@親と教育講演会

 実行委員会形式で「教育講演会」開催。(S氏を招いて T先生と共に 200名以上 参加)

A好きなことでサークルづくり

  「コーラスサークル」をもとに地域の祭りへ参加。「読書サークル」への参加。純粋に コーラスをおこないたい人と、家に余りいたくないから参加している人との間で分裂。解散。

B「ことばのごちそう」           

学級委員のIさんとPTAの打ち合わせをしたとき、「朝読書」の時間に読み聞かせに来てもらうように話す。(「学校からは奇異な目で見られた。」)学級の他の親にも呼びかけて一部の親が参加する。兄弟のいる学年へも読み聞かせに入る。(1)

  PTAの母親委員会のAさん(私の学級)を中心に呼びかけ、Iさんも参加して歯の人形劇を練習、全校児童の前で発表。(2)

  同時に学級でIさんを中心に呼びかけ、「子育てを語る会」を自由参加(学級中心)で月1回開催し、子どものこと、学校のことなどを気楽に話していく。「「子育てを語る会」の人は、教育熱心」という陰口もあるが、気にせずやろうという方向を確認。自分たちが楽しいから。子どものためにもなるから。そこでは、おしゃべりの他に講師(服部潔氏)を呼んでの「講演会」を企画し、他の人を誘ったりもした。

 「町主催の「家庭教育学級」には人が集まらないが、サークルには集まっているね。」と教育委員会の社会教育主事より私に。同時にIさんの方へも「家庭教育学級」として、活動しませんかと打診。(3)自分たちのやりたいことが制限されるのではないかなど懸念もあったがやる方向で。会場費がただになったり、「講演会」を開くときなど教育委員会の後援を受けられたりするメリットもある。

2年目は私が学級を替わるが、Iさん中心で続けて行い、私の学級の親も参加するようになる。

その後、郡か県のイベントが町で行われることになり「子育てを語る会」として人形劇の発表で参加をする。また、地域での「おはなし会」を企画運営し、学校を通してチラシの配布(4)をしたりした。

 私が転勤。「言葉のごちそう」とサークル名を変更。(子どものことを語り、自分たちの得意を生かして子どもに見せていけるような活動を行っていこうと。)IさんやAさんを中心に、「乳幼児学級」の「夕涼み会」に定期的に参画。「乳幼児学級」の大会では 踊りや歌を発表。民生委員からの誘いで、地域のフェスティバルにも参加し、他のサークルと合同で人形劇などを発表(5)した。ある親は、「みんな無理しないでできる。その時、都合のつくメンバーで役割分担をして。強制しないので無理せずわがまま言ってる。」と笑いながら。おしゃべりの会も月1回続けている。「自分たちのためになるから。自分たちが楽しいから」(6)と。私も時々参加させてもらっている。                                          <O小>
















































<注>(私の思い)

(1) 私や共的な活動が公的な世界とどうつながるか。なぜ「読み聞かせ」を学校は認めたのか。

「開かれた学校」を逆手にとって、真の親地域との協同を創り出す端緒になったのではないか

(2) PTAの行う公的な活動は、私や共により近いのではないか。そして、母親委員会は自分たちだけの活動とせず自主参加?を呼びかけたのが良かったのではないか。だから、意識的な有志が参加できた。これも、公を開く一つの方法となる。

(3) 教育委員会などの公的な活動は、硬直化しているのかもしれない。公的な活動を私や共の側から創り直していくチャンスである。

(4) 自分たちの「得意なこと」で表現していく場を、自分たちで創ることができた。そして、それを公的な学校も支持している?地域に自分たちの居場所と出番ができたということではないか。

(5) 活動の広がりや深まり。つながりの広がり。

(6) 活動に対するとても大切な考え方。人のためではなく、「自分たちが楽し」くなるために。それを見て、人も楽しくなるだろう。だから、続けることができる。

C「父親委員会」

「茶話会」。(11回)「先生とお父さんで話してみよまい会」(1回)→PTAの組織としての「父親委員会」誕生。「読み聞かせ」。(9名交代制)
「親ノート」。次年度の担当学級では、「茶話会」未成立。「親ノート」、「読み聞かせ」実施。           <K小>

D「おしゃべり会」

「読み聞かせ」。(金曜日の読書の時間、木曜日のドリルの時間の週2回 都合のつく方)。
「親ノート」。「わいわいがやがやおしゃべり会」(月1回 公民館)。     <N小>

Eその他
授業参観での親の授業参加。(楽焼き、はさみの使い方、昔の遊びなど
学級通信での誌上討論。(いじめについて、子どもの見方についてなど)

(資料1)

「読み聞かせ」をしませんか。

  この2年間で数回「読み聞かせ」をさせていただきました。最初は「多くの子どもたちの前で本を読んで聞かせるなんて自分にできるだろうか。」と、かなりの緊張で教室に入りました。顔をひきつらせみんなに「おはよう。」

 でも、次の瞬間、子どもたちの食い入るような瞳の集団に逆に吸い込まれそうになりました。先生とは違う友だちのお母さんが本を読んでくれるという好奇心。何をどんな風にどんな声で 読んでくれるのだろうという期待に満ちているようでした。危なっかしく読みながら子どもたちを見ていると、前にもまして目を輝かせ一言一句聞き逃さないぞという感じです。

 さらに、本の内容に対するとっても素直な反応。ページが進むに連れて、読むものと聞くものがあ・うんの呼吸になっていき、こちらもだんだんのせられて、熱くなってきました。途中で何か問いかけてみても子どもたちは答えを返してくれ、それはとても気持ちいいです。

 読み終わると子どもたちの心からの拍手と「ありがとう。」の言葉。「こちらこそありがとう。」と言いたくなるような充実感。とっても貴重な体験ができたと行ったかいがあったと思える時間でした。

 一人でも簡単ですが、二人、三人で分担して読んだり、紙芝居など人物で人を替えて読んでも楽しく、子どもたちも益々喜ぶと思います。

 低学年の子どもで去年お母さんが本を読みに来てくれた日、1日張り切って勉強をした子がいたそうです。「お母さんがあんなに一生懸命読んでくれたんやで私もがんばる。」って・・・。

 参観日には見えない子どもの様子も分かりますし、親が自分たちのために何かやってくれるというのはいい影響になると思います。そして、嬉しいのは、その後学級の子どもたちと色々なところで出会ったとき、親しみを持った目で見てくれることです。

 「読み聞かせ」なるべく多くの親さんにやっていただけたらと思います。

(資料2)     親の回覧ノートについて

1.ねらい

 ◎親同士が悩みを分かち合ったり、課題をみつけたりする。
 ◎親同士の日常的なコミニュケーションをはかる。
 ◎オープンなノートとし、どんどん書き合う。

2.内容

 ◎ご家庭のこと(=しつけ、親子関係、子育ての愚痴・むずかしさ、わが子の様子等)
 ◎学校や担任への要望や感想等(学級通信への感想等)
 ◎社会、文化、教育一般に関する雑感等   ※どんなことでもご自由に書いてください。

3.担任の参加

 担任も意見、感想(返事)等を書き、ノートに参加させて頂きます。返事を要するものについてはそのコピーをお子さんを通してお渡しします。

4.回覧のし方

 @ノートは1冊作ります。男子から出席順に回覧します。
 Aノートはお子さんに渡します。
 B3〜4日中にお書きになって、担任へお子さんを通して提出してください。
 C担任から次の方へ回します。

5.書き方     ページの最上段に月日、氏名を書いてください。

6.書けない時

 無理なときは、遠慮なく「パス」と書いて提出してください。次回に書いてくだされば結構です。気楽にやりましょう。

 

参考資料(3)                                加藤

 生源寺さんから基調提案への意見がありました。了解を得て、みなさんに送ります。これも一つの意見として、基調提案の後に付け加えたらと思っています。以下が、生源寺さんの意見とそれに対してのわたしからの返事です。

基調提案について

自分自身の学習に対する提起を

 生源寺 孝浩

基調提案読みました。実践研究というものが外に向かうと同時に内に向かうべきものではないのかということについて一言述べさせてもらいます。

2004年度の基調提案の中に以下のような文言があります。以下引用します。

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

(1)実践家としての自分が課題としている対話の場面をリアルに構想し、実践し、そしてそれらを記録に残して「こんな意図で彼等とこんな対話をしたら、こんなことになったがどうだろうか。」というような実践提起を期待したい。(2の最後)

(2)かなり以前から岐阜生研では実践記録のリアリティー、「事実性」というのを重視して分析してきた。つまり分析では特に教師の指導言や子どもとの対話から、教師がその子どもをどのように捉えたのか、その捉えとそれに基づいた具体的な指導言とが妥当であったかどうかを集団的に検討してきた。

  しかし最近の実践分析では、やはりこのような対話がなかなか進展していかないような状況が現れてきているようである。例えば実践のはじまり、つまり子どもと出会った頃の対話と、それからしばらく後の対話では何かしらの質が違ってきているはずである。(3の途中)

 (3)共同的な関係を創っていけるような対話を実践の軸に据えて研究していきたいのである。

(3の最後)

 (4)4.「対話」から「討論」そして子ども集団づくりへ(4の見出し)

 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 (1)から(4)まで引用しました。

これらの表れている言葉をつないでいくうちに感じることは、一言で言うと、自分たちの実践の対象への行動提起はあるけれど、自分自身への学習に対する提起がないというのが感想です。

エピソードを二つ紹介しましょう。

その1

2000年からこの方、科教協東京大会は100人ちょっとの規模の会であった。それが去年から急にふえてきた。2004年度の科教協東京支部の研究集会に200人を超える教師が参加したと報告がありました。そのうち、科教協会員が100を少しきり、あとは非会員だったそうです。

その2

昨日、ぼくは神戸で開かれた科教協近畿支部の研究集会に参加してきました。その会には71名の参加があり、10府県にまたがる府県から参加していると言うことでした。参加者の顔ぶれを見ると、知らない顔ばかりで、若い人の参加が多くありました。教師2年目ですとか、6年目ですとかそんな話が多く聞かれました。たぶん会員外の参加も多くあったと思われます。

この二つのエピソードからぼくは次の二つの論を引き出します。

その1

多くの教師たちは自分と自分の学級には問題がないかのような顔をしている。しかし、内実はすごい困っていて、理科教育をどうしたらよいかほとんどわからない。それは、教科書を見ても何を教えたらよいかわからないような編集になっているからでもある。

そして、少し心ある教師たちは、教科教育の実践の中身を豊にすることを通して子どもたちが学びに戻ってくる可能性に賭けているのではないか。しかし、現行の教科書・指導要領体制は決して子どもたちを豊かにはしない。実践現場での教科教育の実践の内容は、教科書・指導要領体制でがんじがらめにされている。

だから、学習内容はくだらない・おもしろくない・わからないのである。その傾向はますます強まってきている。また、その結果でもあるが、子どもたちは学びそのものから離れている。くだらない内容をいくら学んでも自分の生活に学びを必要としていると思えないでいるのである。

そして、学ぶことによって「自分が広がる」(岸武雄)実感が持てないのである。教師たちはそれを何とかしたいと考え始めている。

その2

対話。父母との対話、同僚との対話、教師と子どもとの対話、子どもどうしの対話。対話を作り上げる元のところに「ことば」と「科学」とがある。その二つを対話するものどうしがどれほどに豊に持ち合うか。

そのところが抜けていると、異質のものどうしは共同できなくなるのではないですか。ここのところの提起は岐阜生活指導研究会の内に向けられた課題ではないでしょうか。人とつながるということは、関係性を作り出すことですが、磁石が鉄と相互に引きつけあうのと同じことではないかと考えます。磁石は自分が持っている磁力によって相手の鉄に磁力を作り出すのです。磁石の磁力と鉄に作り出された磁力とが相互に引きつけあうのです。

だとすれば、関係性は相互に相手に作られる磁力のようなものが必要になるでしょう。つまり対話の内容、関係性の中身をいかに豊かにするか、強めるかを考えたいと思います。


  自分自身のなかに人とつながるスキルを              加藤

 基調提案へのご意見ありがとうございました。以前(もう10年以上も前のことですが)、岐阜子育てセンターの活動をしていた時、人とつながること、人と人をつなげること(ネットワークすること)の難しさを痛感したことがあります。

 全国大会のおりに、竹内常一先生に相談しました。「そう悲観することもないし、あわてることもないんじゃあないの。聾者とつながるには、手話を知らなければならない。自分自身のなかに人とつながるスキル(技)がなければつながることはできないんだから、それをじっくりやっていけばいいんですよ。」

 生源寺先生のご意見をみて、竹内先生の言葉を思い返しています。基調提案への一つの意見として、総会合宿研に持ち込んでいいでしょうか。政治・組合・教育などの民主的な活動に携わるものこそが、人と豊かに交わり、つながる力を鍛え直していく必要があると、このところとみに感じています。