1995年度岐生研基調提案

 いじめを越える異質・共同の関係性をつくりだそう
                                                岐生研基調提案作成委員会
%1.現代のいじめ問題をどうとらえるか
%2.学校が生み落としているもの
%3.一元的能力主義と新学力観がもつ問題性
%4.授業変革へむけての視点
%5.班的集団の発展的検討をしよう

%1.現代のいじめ問題をどうとらえるか

 94年11月、愛知県の中学2年生の大河内清輝君が、いじめられる苦しみを訴える遺書を残して自殺した。その後も同種の事案と思われる自殺があいついだ。そうしたいじめ問題を大きく取り上げた報道は、日本中の父母・教師に、いいしれぬ衝動と不安を与えた。こうした事態を受けて、文部省はいじめ対策緊急会議を開き全国に通知を出すに至った。そのアピ−ル文には「いじめが行われる背景には、いじめる側に、思いやりや他者の痛みが分かる心、善悪の判断、遵法精神が欠落している点があると思われる。特に『社会で許されない行為は子どもでも許されない』との強い認識に立って子どもに臨むことが不可欠である…」とし、いじめ問題の解決策として、刑事責任を中心とした個人への責任追及を中心にすえることを打ち出してきている。(迫害、人権の問題はそれでもいい) また、弱い立場に置かれた子の悩み、何らかの問題を抱えている子の日常の相談相手として、「学校カウンセラ−」を置くことを重視し、いじめ、登校拒否などの問題で揺れている学校の問題を解決しようとしている。(学校文化)
 しかし、こうした解決策ではいじめ・登校拒否の問題を根本的に解決することはできないと思われる。なぜならば、いじめ問題も登校拒否も今日の抑圧的な学校が構造的に生み出している学校現象であり、問題を抱えるある特定の子たちが引き起こす問題ではないと考えられるからである。
 今日のいじめは特定のグル−プが特定人をいじめの対象とすることで終わらず、加害グル−プの中で加害者と被害者に分かれたり、現在の加害者と被害者が、一つの加害集団となって周囲の傍観者層の中から新たな被害者を発見して巻き込むという、いじめの連鎖性があり、加害者と被害者との間に立場の入れ代わりがある点が特徴的であるといわれいる。
 それは、大河内清輝君のケ−スのように、いじめる側の複数者といじめられている側の一人が外からは同じグル−プのように見える現象としてあらわれてきている。いじめる側の複数者は標的を排除しないのである。排除してしまえば標的はいじめグル−プから自由になってしまう。排除せず、有形・無形の暴力を浴びせかけることによって自由さを奪うのである。自分たちのいじめの標的として分断しておきながら、そこからは脱出させないようにする。つまり、いじめは標的を一人にしない。複数と一人に分断しておきながら、分断は排除に向かわず、補完関係を形成しようとする。(いじめられ側にとっても、その閉ざされた世界の中で居場所らしきものを見いだしていて、かなり暴力的な仕打ちをされても、その関係世界からは離れられないでいるのである。それは、別の見方をすれば、そこ以外にはもう自分と他者が交われる世界が見付からないという疎外状況があるともいえる) だから外からは、同じ仲間と見えるということが生じるのである。しかし、この分断の線はいつ、どこに引かれるのか分からないから「いつ自分が被害者になるか分からない」という不安と恐怖を生み出すのである。だから多くの子どもたちは正義感だけで軽々しく「いじめをやめよう」ということもせずに、無関心を装い、自分が被害者にならないためには、必要ならば加害者にもなるという、加害集団とそれを取り巻く加害集団予備軍になっていくのである。言い換えれば、「集団内の同調競争において、少しでもはずれている異質な子どもを探し出して、狙い撃ちにし、そのことによって自己保全をしようとするサバイバルゲ−ムの展開」が、今日のいじめの構造であるということができる。
 したがって、単にいじめる者個人への責任追及を強めるだけでは、いじめの解決策にはならないし、特設「道徳」の強化などによって心情的・精神主義的規範意識やおもいやりの心の指導を繰り返しても、さほど効果がないといえる。
 別の分析。学級丸ごとのいじめと学級からはみ出したいじめ。
学力のとらえ方、親や自分の期待と現実とのずれの学力差からくる、学力観にとらわれていた。
 大河内君にとってもっと別の生き方があったのではないか。学校文化と大衆文化とは別の生き方。

%2.学校が生み落としているもの

 現在の学校は、60年代以来の一元的能力主義に立った厳しい学力競争に、依然として駆り立てられている。学校から落ちこぼれることは、人生から落ちこぼれるという強迫観念に親も子どもも、そして教師自身も囚われているからである。
 さらに、90年代から導入された新学力観による授業における関心・態度の重視、高校入試の内申書重視と推薦枠の拡大等の新たな管理主義により、子どもたちは、これまで以上に権威的秩序への忠誠競争に駆り立てられるようになった。
 こうした二重の抑圧の下に置かれ、子どもたちはいらいらや、ストレスを日常的に溜め込んできている。現代のいじめは、そうした状況の下で構造的に生み出されたものだといえる。 
 照本氏は「現代の子どもたちは競争秩序の下で日常的に抑圧されており、この被抑圧状況のもとで、かれらは自分よりも『弱者』を見付け出さなければならないという脅迫観念の中を生きているとし、現代のいじめは、自己存在への不安と背中合わせの脅迫観念のなかで生きているかれらの現実を表現しているものだ」としている。そうした認識に立って、さらに「いじめのタ−ゲットにされる『弱者』を集団に教えているのは、実は『学校』である」と指摘している。照本氏は「いじめっ子はもともと無差別に他を攻撃するものであるが、やがて学校秩序の周辺ないし底辺にいる者に対していじめを集中していくのである」という竹内氏の言葉を引用しながら「学校は、学校秩序の『周辺』ないし『底辺』に位置する子どもを制度的に確定しつつ、かれらをいじめのタ−ゲットとしてパワ−ゲ−ムの中に無自覚に放り出している」と論じている。
 照本氏のこうした指摘は、いじめを克服する上で極めて重要な視点を与えてくれている。つまりいじめは、学校制度が生み落としているものである以上、「学校の在り方そのもの」を視野にいれた改革が提示されなければ、いじめを克服することはできないということである。そういう点で、前述した文部省の解決策である「処罰強化策やカウンセラ−の導入」は現象面に対する対処療法策であり、学校制度に対する反省と改革の視点を欠いたものであるが故に、いじめを根本的に解決することはできないということが言える。 また私たちの展開すべき実践においてもこの点は、非常に重要であるといえる。今後「いじめ追放宣言」や「人権委員会の設置」などの実践が展開されてくると思われるが、その時にまず教師・学校がいかに子どもを抑圧してきたのかを反省しその改革を行うことを前面に出すことが必要であるといえる。そうでなければ、いかなる宣言も取組みも真に子どもたちに受け入れられることはできないであろう。子どもたちは、自分たちを最も苦しめているのは誰なのかを暗黙のうちに知っているからである。

%3.一元的能力主義と新学力観がもつ問題性

 全生研はここ数年、授業における改革を提起しているが、いじめ問題にかかわってもこの視点は重要な柱だといえる。そもそもいじめは学力・忠誠競争と同調競争そのもののなかから生み落とされてくるものだから、授業における改革なくしていじめを克服することはできないといえる。
 70年代から学校の体質とさえなった一元的能力主義は、文部省が認定した所定の知識・技能をすべての子どもに共通に伝達し、その修得度に応じて子どもを「タテ並びに序列化」し、選別・選抜するものであるといえる。そこでは、権力が公定した知を絶対化し、いかに溜め込んだかでもって子どもを評価・評定していくものとなる。ここにおける知は、権力にとっての有用性となる知であって、決して子どもにとっての必要な知とはいえない。だから、子どもたちとっては「無味乾燥な知」であるばかりか、自分自身や現実世界と出会うことから隔離されて、権力によって染め上げられた世界の中に閉ざされていくことになる。
 また、ここでの学習行為は、知を無批判的に溜め込んでいくことと平行して、授業における権力的な関係(教師は絶対化された知識を与える存在であり、生徒はそれを受け入れる存在)を無意識的に身に付けていくものとなる。このために、子どもは学習すればするほど、自分を権力的な関係の中に縛り付けていくことになるのである。
 こうした能力主義に立った授業は、必然的に正解中心主義の授業に落ち込んでいく。そして、絶対化された知を正確にたくさん溜め込んだ子が賢い子とされ、間違いを繰り返す子や、正解をなかなか理解できない子どもが馬鹿にされ、排除されるものとなる。だから子どもたちは、テストの結果にこだわり、仲間を点数・偏差値で見るようになる。そして自分より点数の低い子に対しては、歪んだ優越感を抱き、逆の場合には、自己否定に襲われるのである。こうした序列・排他的競争のもとで、集団内の「弱者」の確定作業がすすみ、「いじめ」を生み出す土壌をつくりだしていくのである。
 ところで、このような一元的能力主義に対して、文部省が新たに打ち出して来たのが「新学力観」である。新学力観は「これまでの学習活動については、ともすれば、教師が中心になりながら知識や技能などを教えこみ、子どもが受け身でそれらを受け止めるような形になりがちな傾向が見られた。これからは、学習活動を、子ども一人ひとりがその良さや可能性を豊かに発揮し、自ら考え主体的に判断し行動できる資質や能力を身に付け、心を豊かにするプロセス、すなわち、子どもが豊かな自己実現をめざす活動としてとらえることが大切である」(教育課程資料)とし、これまでの伝達式授業に変わるものとして、「主体的な学習の仕方の育成」を提起している。しかし、これまでの研究で明らかになっているように、新学力観は「主体的な学習」を提起しているにもかかわらず、子どもの権利条約が保障している「意見表明権」や「社会参加権」というような子どもの主体性を認めようとはしていない。それどころか、以前にもまして君が代・日の丸を強制したことに見られるように、学習の目標レベルにおいての規制は強化されている。そこでは子どもの権利を普遍的な価値の選択の自由から、私的利益の選択の自由に切り下げ、民主主義に敵対するような覇権主義を担う「たくましい日本人の育成」がめざされているのである。つまり、子どもたちに認められる主体性は、権力的な知の文脈にそってのものであり、社会的な変化に自己を適合させ、自己を主体的に臣民化していくものである。また他方においては、「意欲・関心・態度の重視」の名のもとで、子どもに「国民として必要とされる基礎的・基本的な内容」を保障する教育責任を放棄していくものである。
 たしかに、一人ひとりを大事にするかのような、うたい文句は美しいが、競争体制をそのままにして、分に応じた棲み分け体制をつくりあげ、その体制の中で競争をくりひろげるような多元的能力主義である。それは学習内容を指定した旧能力主義がもつ管理主義的な教育よりも、さらに子どもに自己統制を要請するものとなり、以前にもまして、子どもの発達可能性を奪い、自尊感情を否定していくものとなっている。

%4.授業変革へむけての視点

  それでは、私たちが追求すべき授業・学習とはどのようなものであろうか。簡潔にまとめれば、「子どもの社会参加権と学習権に基づく批判的な学びを保障する授業であり、要素的な知識の注入を基本とする一元的な能力主義の授業や、『知識・技能』よりも『意欲・関心・態度』を不当に強調する新能力主義の授業を批判し、地球時代にふさわしい国民的教養とはなにかを子どもと共に追及する授業である」(昨年度全生研基調提案から)といえる。 いじめ問題にからんで言えば、いじめは授業における「正解絶対主義と均質化と序列化、そしてそこから生み出される序列・敵対的人間関係」という構造のなかから生まれてくるのであるから、私たちは「正答だけでなく、まちがいから学ぶことの大切さがわかる授業、分からないということがいつでも言える授業、一人ひとりの子どもの考えが大事にされ、一人ひとりの子どもの良さが授業の中で見直され、肯定的に評価されるような授業、一人ひとりの考えや行動の独自性・異質性が大切にされ、異質共同の学びの関係性がつくりだされていくような授業」をつくりだすことが重要となる。そのためには、「一人ひとりの学習権を保障していくことができる力量、偏見による対立を越えていく力量、真理・真実のもとで連帯する力量、理想の追及を基本にして学習に取り組む力量を持った学習集団(新版学級集団づくり入門から)」を形成していくことである
 またそうした学習集団をつうじて、一人ひとりの子どもがその教材に対してどのような関心や疑問や問題意識をもっているかを聞き出し、学習課題の中に位置付けていくこと、またそうした学習課題の提起と平行して、なぜそれを学ぶ必要があるのか、学ぶということは生きることとどう関係しているのかをわかるようにしていく必要がある。
 学べば学ぶほど制度知を取り込んでしまい、現実世界と自己を見えなくさせれているという今日の日本の状況を考慮すれば、ユネスコが勧告した教育・学習方法は(「批判的な学び方学習」といわれるもの)、きわめて示唆に富んだものであると言える。竹内氏の解釈によれば、それは次のようなものである。
(1)生活現実の中に潜在している問題や課題を取りだし、これを子どもの 権利の側から解読していくもの。それは、生活現実の中に埋没しがちな子 どもの自我を自立させていくと同時に、それに批判的に対峙させていくも の。
(2)学校の権力的な文脈に従属して世界を読むのではなく、互いに異質な 人々の生活文脈を重ね合わせつつ世界を批判的に分析していくもの。
(3)感性と想像力をつうじて、自己とは異なる他者の権利状況や生活現実 を共感的にとらえ、他者を固有の権利要求を持つものとして発見させてい くもの。
(4)参加と学習を統一的に展開していくことのなかで、現実に批判的に介 入する行動力を育てるもの。
(5)あらゆる地域的・全国的・世界的な問題をグロ−バルな相互関係のも とでとらえさせていくもの。それは世界の人々との連帯によって、さまざま な人類的な課題を解決していく力を形成していくもの。
 今私たちが追及すべき学習は、こういう「批判的な学びかた学習」だと言えるのではないか。こうした学習が実践展開されるならば、大人と子ども、子どもどうしの「異質・共同の関係性」がつくりだされ、いじめは克服されていくといえよう。

%5.班的集団の発展的検討をしよう

 今までに述べてきたように、いじめは学力・忠誠競争と同調競争そのもののなかにに胚胎している。だからこそ、授業・学習における改革なくしては克服されないといえる。
 一方、いじめ問題は、集団的側面からとらえれば「異質なものを差別・排除してしまうという個と集団における交わり能力の欠如、集団内に派生するトラブルを自治的に解決できない子ども集団の自治能力の欠如の問題である」と、とらえることができる。だからこそ、民主的集団づくりを提起してきた全生研に「いじめ克服の実践提起」が期待されているともいえよう。
 ところで、集団づくりの三本柱でいえば「交わりと自治」の両方の要素を担い、発展させるのが「班づくり」の重要な課題であったのではないか。その点を新版は、「班は、一面では、一人ひとりの子どもの要求を守り、引きだし、実現するものでなければならない。そのためには、それは、日常生活をともにする親密な関係をもち、子どもたちの要求を共同化することができるような第一次集団、一人ひとりの子どもにとって居場所となり、子どもの人格形成にもっとも影響力のある第一次集団でなければならない。
 しかし、他面では、それは、集団の意思を一人ひとりの子どもの意思にしていくと共に、一人ひとりの子どもの行動を集団の目的にむけて組織するものでなければならない。その意味では、それは、集団の目的に一人ひとりの子どもの意識と行動を組織していく自治的集団の基礎的集団でなければならない」と規定し、班づくりの課題は「学級集団に開かれた、親密な交わり関係をもつ班をつくりだし、個人と集団との関係を民主的で開かれたものにしていくことにある」としている。
 しかし、今日、この班づくりが思うように展開されていない状況がある。特に中学校では、班が制度的にがんじがらめにされていて、班がえが年に2回と決められていたり、委員会からおりてくるの点検活動の単位集団・管理集団と化してしまっていたり、当番活動的にしか機能していないなど、危機的状況にあるといえる。(小学校でも、班編成は学期に一回で、いわゆる勉強のできる子や先生の指示通りに動ける子が班長となって班を編成・統制していくという『管理のための班』という傾向が強くなっている状況がある) そういう管理主義的な色合いが強い班においては、子どもたちの豊かな交わりが展開されていくはずがなく、必然的に子どもたちの交わりは、二人関係というような閉鎖的小グル−プにとどまるか、地下組織的なグル−プとして学級を裏から支配するような私的グル−プの中に閉じ込められていく。そしてそのことが、いじめを生み出す土壌ともなっているのである。だからこそ、子どもたちの民主的な交わりを生み出すような『班づくり』が、今私たちに求められている。しかし、制度的にがんじがらめにされている今日の学校状況を考えるならば、「公的な班」だけにこだわらず、「班的集団」の発展的検討が必要になっているといえる。それは問題別小集団、学級内クラブ(サ−クル)、私的グル−プなども含めて班的集団とし、前述したような班がもつ役割を、それぞれがどう担い、交流し、発展させていくことができるのかを検討していくということである。
 以上に述べてきたことの実践提起をいじめ克服の道とからめて、今年度の岐生研の追及課題としていきたい。
                                      (1995年5月 文責 河田 )