1996年岐生研基調提案

「学校と地域を学びと共生の場にしよう」
                                                                                                       基調提案作成委員会  

1.80年代からの情勢の流れをとらえる

  私たちはいま、学校教育を根本的に見直さなければならないときにあると言える。なぜなら、「公教育の解体」と「国家と企業による教育支配」が強力に押し進められようとしてるからである。そのために、わたしたちは今、国家と企業の両面からの教育支配に抗して、子ども・父母・住民・教職員の協同のちからで、かれらの教育路線とはまったく別の教育路線をどう築き上げていくかという歴史的な岐路に立たされているのである。
  80年代から90年代への情勢の流れを見ていくと、次のような特徴を掴むことができる。
(1)80年代…新国家主義と新自由主義の登場
政治的には、安保条約・自衛隊の合憲化と、憲法改正の動き。浮沈空母発言と軍拡・総合安保体制に代表される「強い国家づくり」。経済的には、列島改造計画の破綻や軍事負担の増加によって経済が悪化。その結果80年代の歴代内閣は、「医療、福祉、保険の分野に受益者負担」を導入し、家庭や地域に「自助努力、相互扶助」を強いてきた。
  教育的には、東郷平八郎が教科書に登場し、日の丸・君が代の強制化。道徳教育に「人間の力を越えたものに対する畏敬の念」がかかげられる。また、指導要領に「自己教育力」が登場し、「ゆとりの時間」が設置されると、受験学力は学校に期待できないととらえた父母が教育産業へ走りだし、受験競争は拡大の一途を辿ることとなる。
(2)90年代…新々保守主義の登場
  政治的には、冷戦体制の崩壊によって「西側の一員としての日本」から「世界のリ−ダ−としての日本」をめざす。国際貢献という名目で自衛隊の海外派遣を合理化し、一方で安保理事国入りを狙う。経済的には、生活拠点を国際的にネットワ−ク化し「フロントランナ−日本」として経済大国をめざす。産業構造の再編に向けて日経連は、雇用形態を今までの終身雇用に替えて、いかなる状況の変化にも対応できる雇用システムとして「長期蓄積能力活用型グル−プ…長期雇用する企業の中心的人材」「高度専門能力活用型グル−プ…流動生のある高度専門職」「雇用柔軟型グル−プ…契約社員、パ−ト社員」に区別する雇用形態を提案している。
  教育的には、「社会の変化に主体的に対応する力」と「たくましい日本人の育成」を謳い文句にして、「新学力観」が登場する。文部省は「これからの教育においては、基礎的・基本的な内容は、新しい学力観にたち、学習指導要領に示している『目標』の体系の中に統合された内容としてとらえ、子ども一人ひとりのその後の学習や生活に生きて働く力、すなわち自己実現に生きて働く力となったとき、はじめてそれは意味を持つ」として、これまで述べてきた基礎・基本の概念を大きく変える。つまり、基礎・基本を内容レベルでとらえるのではなく、目標レベルでとらえるとしたのである。これにより、今までの一元的能力主義競争に変わって、多元的能力主義競争が早期に展開されていくこととなる。これは先に述べた雇用システムにマッチしていく。つまり、偏差値−学歴−社会的処遇が直列でつながる一元的能力主義競争にかわって、出口には「能力=個性」に応じて多様な社会的ポジションが用意されていて、そのどこに位置付くかを競い合う多元的能力主義競争が組織されていくのである。
  そして昨年、経済同友会は、文部省の進めようとしている学校改革の先取りをする形で「学校から『合校』へ」を発表した。これまでの学校を、基礎・基本と日本人としてのアイデンティティの教育を主とする「基礎・基本教室」=『学校』にスリム化し、その『学校』の周辺に、異年齢の子どもで組織される「体験教室」と「自由教室」を配置し、全体を緩やかなネットワ−クとして統合し、そこに企業を含む教員以外の社会の多様な人々が参加する新しい学びの場をつくろうというものである。体験教室や自由教室の運営に当たっては、企業の参入を提案しているこの構想は、学校・地域・住民に対する企業支配を、かつてないほどの規模と勢いで押し進めようとしているものといえる。
  以上、80年代からの流れを整理していくと、経済の悪化にともないを教育・福祉・医療などの公共領域を縮小・再編し、その費用を国民に肩代わりをさせる一方で、企業に対しては、新しいマ−ケットを誕生させようとしてきたのである。また多様な雇用形態に対応した人材育成を公教育に担わせることで、労働力の効率的配分・確保を実現しようとしたのである。そして学校教育に対しては、日の丸、君が代の強制に代表されるような、むきだしのナショナリズムの押し付けと一元的・多元的能力主義競争に基づく差別・選別のシステムの貫徹という教育支配を進めてきたのである。

2.国家・企業の支配下における教師・親・子どもの状況

  では、国家・企業によるの能力主義支配は、学校にどのような影響をあたえてきただろうか。
  60年代からの一元的能力主義、90年代からは多元的能力主義と、能力主義が学校を支配しはじめてから、もう30年ほどにもなる。その結果、教師も親も、子どもも、本来自分たちが必要とすることを教え、学ぶことを否認されて、国家・企業の必要・指定することだけを教え、学ぶことになったのである。言葉をかえれば、教育を生活から隔離して、権力が必要とする学校知的な知識の中に閉じ込めこめてしまったということである。このために教育は、教師にとっても、親にとっても、子どもにとっても、真の目的を失い「選別・選抜の学力競争そのもの」・「国家・企業への忠誠競争そのもの」に転化してしまったのである。無味乾燥な受験知の授受と学力・忠誠競争を介して、子どもは権利の主体として世界に参加することや、他者との共存・連帯を追求する意識と機会を奪われてきた。近年のいじめ、不登校・登校拒否の激増は、アイデンティティ追求の機会を失っている子どもたちの、彼等なりのアイデンティティ追求の苦悩の姿だとも言えるだろう。
  それでは私たち教師は、この能力主義政策に対して、どのような取り組みを行ってきたのだろうか。能力主義に毅然と立ち向かうべきであったが、30年ほどにもわたる能力主義の教育体制のなかで教師を続け、その体制の中で教師になった私たちには、容易にできるはずもなかったし、現在にいたってもはそれができているとは言えないであろう。子どもたちが能力主義に反発しながらも能力主義にひきずられていく以上に、私たちが囚われてきたと言ってもいいのではないか。「どの子にも基礎学力の保障を…」「生きて働く学力を…」とさまざまな取組みはされてきたけれど、競争システムが強力にはたらく磁場においては、それが競争秩序に対抗するもの・学校変革につながるものとはならず、教師が主体の知識注入主義や正解中心主義の授業実践であったり、善意からの「学力保障」が受験競争を補うものになっていたのではないか。また学校週5日制導入に当たって、時間数が削減されたから等の理由で、教科外活動における子どもたちの自治活動の場を減らしたり、生徒会・児童会の活動を教師の下請け的なものにしたりと、子どもたちの学校づくりへの主体的参加を保障してこなかったのではないか。また、学校変革の目がもてなかったばかりに、不登校児童・生徒への取り組みが、能力主義支配下にある学校への再適応を促すものであったり…等々に、私たちの囚われの実態が現れていたと言えないだろうか。だとしたら、国家・企業の支配が学校内外をさらに広く・深く包みこもうとしている今日、私たち教師が能力主義の呪縛から解放され、自由な主体として教育実践を展開していくことが、何よりも第一に求められていると言えよう。

3.岐生研の実践が生み出したもの

  能力主義支配に抗して、抜本的な学校改革が導き出されているにまでは至ってないけれど、支配に対峙していくような実践は岐生研の中で確実に生まれてきている。そこのところを昨年の実践を取り上げながらみていこう。
  昨年度の岐生研基調提案では、「いじめを越える異質共同の関係性をつくりだそう」を提案した。いじめに代表されるような、能力主義支配下における子どもたちの発達疎外状況に対して、いじめ問題を切り口にしながら「ユネスコ学習宣言に基づく批判的学びと、異質・共同の仲間関係を基本とした自治の創造」を意図していたのである。
  「…集団内の同調競争において、少しでもはずれている異質な子どもをさがしだして、狙い撃ちにし、そのことによって自己保全をしようとするサバイバルゲ−ムの展開が、今日のいじめの構造である…学校は、学校秩序の『周辺』ないし『底辺』に位置する子どもを制度的に確定しつつ、かれらをいじめの『タ−ゲット』としてパワ−ゲ−ムの中に無自覚に放り出している…つまり、いじめは学校制度が生み落としているものである以上、学校の在り方そのものを視野にいれた改革が提示されなければ、いじめを克服することはできないということである…」 (昨年度の岐生研基調提案より)
  現代のいじめをどうとらえるのか等を、かなり深く分析した基調提案であった。この基調提案を受けて、いじめ問題に対する実践が県内のあちらこちらで展開された。
  畑実践(可茂支部)は、閉息的な状況下における中学校で、生徒会を通して「いじめや差別を追放する学校決議」をあげる実践を報告した。いじめ問題に対して、文部省が「刑事責任を中心とした個人への責任追及」という管理・強制の解決策を打ち出しているのに対して、畑実践は、生徒の自治活動を高めていくことで、いじめ克服をしていこうという実践姿勢を示している。いじめ問題を通して、子どもの管理・支配がさらに強力に進められようとしている今日の学校状況において、現実問題への生徒たちの主体的参加を保障すること、自治活動を豊かにしていくことを通して、支配からの学校改革を進めていこうとする視点はきわめて大切だといえよう。畑実践は、子どもたちの自治活動が失われつつある今日の学校現場にあって、「生徒の自治活動なくして、いじめの克服と民主的学校づくりはありえない」という重要な提起をしてくれた。
  河田実践(岐阜支部)は、生活だけでなく、学習における子どもの抑圧状況を調査項目にいれた、いじめのアンケ−トをつくり、全校で実施している。いじめアンケ−トは、どこの学校でも実施されているようだが、その結果をどう生かしていったのかが見られないものがほとんどである。しかし、河田実践はそこをていねいに行っている。アンケ−トの結果を受けての分析を各学年ごとにレポ−ト作成させ、報告会でその交流を行っている。さらに、アンケ−トの結果を受けて、各学年の子どもの実態のどこの部分に弱さがあり、それを克服するにはどんな実践を行っていったらいいのかという具体的実践追求の交流をするなど、いじめ問題に対する取り組みを通しての、民主的な学校づくりが進められている。
  秋の合宿研で、初めてレポ−ト報告をしたという吉安実践(西濃支部)。サ−クルというのは「子どもの成長、教師の成長の喜びを分かち合う場であった」ということを改めて教えられた感動的な実践であった。吉安実践の主題は「クラスの仲間と敵対する関係にあるk君。また学級集団内部における子どもたちの閉鎖的な人間関係。その二つのゆがんた関係性を『遊びを通して』異質共同の仲間関係に再構築していくこと」であった。さまざまに展開されたユニ−クな遊び・イベントを通して、子どもたちの閉鎖的な関係が解放され、k君はクラスに位置付いていく。昨年の基調提案で「…いじめ問題は、集団的側面からとらえれば、異質なものを差別・排除してしまうという個と集団における交わり能力の欠如、集団内に派生するトラブルを自治的に解決できない子ども集団の自治能力の欠如の問題である…」と指摘しているが、吉安実践は、遊びを通して子どもたちの差別・排除の関係性を組み替えることに成功した実践だったといえる。
  また、4月号の生活指導誌に掲載された桂川実践(飛騨支部)も「遊びを通しての個人と集団の関係づくり」をレポ−トしている。桂川実践でも吉安実践のk君と同様に「学級の中で疎外感を抱いていた俊雄が、『びゅんびゅんごま』という遊びを通して、学級の中で生きいきと活躍する俊雄へと変貌する経過」が報告されている。能力主義が生み出す人間関係が「序列、差別、排他」の関係であるに対して、遊びが生み出す人間関係は「対等、共同、発展」の豊かな人間関係であることを、桂川実践は見事に実証していると言えよう。
  吉安、桂川の両実践は、能力主義下におかれている今日の学校現場において、文化的実践を通じての集団づくりの大切さを、示唆してくれたのではないだろうか。

4.子ども・父母・教師の協同で「学びの共同体」をつくりあげよう

  冒頭で、公教育の解体と国家・企業による教育的な支配が強力に押し進められようとしている今日、それに対抗する教育路線を築き上げる必要があることを述べた。「合校」構想が支配戦略の青写真だとすれば、私たちはそれに対抗する戦略の青写真を立てねばならない。それは、どのようなものだろうか。常任合宿研の時に、山本敏郎氏(金沢大学)が提起されたポイント的視点は6つほどあった。戦いの舞台は「地域」になるだろうということを指摘されながら、
(1)国・地方公共団体の学校から、地域の中の学校へ
(2)教育委員会の民主化、教育行政への住民参加のシステム
(3)学校運営への住民参加のシステム
(4)地域・学校独自のカリキュラム
(5)市民立・住民立学校と教育協同組合
(6)自治体の民主化
  また、人間観・発達観の転換の必要性も語られた。それは、
(1)無限の欲求者、効用の消費者から自らの潜在的諸力の発揮者へ
(2)物質的豊かさか心の豊かさでなく、自分らしさの発揮者へ
(3)開発モデル(企業モデル)、習得モデル(科学もモデル)から発揮モデル(創造モデル)へ
というものであった。めざす方向が的確に打ち出されていると言えよう。 では、私たち実践家は、この方向性を確認しながら、今年度はどんな実践を展開していけばいいのだろうか。各自にテ−マがあり、多様な実践が展開されていくであろうが、今年度の基調としていきたいものは「子ども・父母・教師の協同の力で「学校と地域を学びと共生の場にしよう」ということである。それにはまず、学校は地域といかなる関係にあったのか、父母、地域住民の教育要求や生活向上のための努力と、学校はいかなる関わりを持ってきたかなどに対する実践的な吟味をすることから始めなくてはならないだろう。
  思うに、私たち教師・学校は、これら地域の生活向上の闘い・努力とはほとんど無縁のものとして存在し続けてきたのではなかったろうか。文部省や教育委員会との関わりは深くても、校門のすぐ側で生活をし、文化を育み、子育てをしている人々との協同に対しては、あまりにも無関心であったのではないか。しかし、能力主義支配が学校教育、家庭教育、学校外の教育全体をさらに深く包み込もう賭している現在、わたしたちは、集団づくりを学校内にかぎるわけにはいかない。学校、家庭、地域のすべてにおいて、わたしたちは子ども、親、住民とともに自由と民主主義の原則にしたがって生きるとは何か、そのためにどういう集団をそれぞれにつくりあげるべきかを追求していかなければならないといえよう。
  そしてそれをつうじて、学校を能力主義教育の傘から解放し、親や住民がその労働と生活とをつうじて現に取り組んでいる世界、子どもが現に生きている世界、人類的な課題解決に開かれた世界に、参加していくことが求められているのである。その意味では、わたしたちは本格的に家庭教育、地域子ども組織、子どもの社会参加を運動的課題とすべき時期にきていると言えるだろう。こうした取り組みを通して、国家・企業の支配のシステムから、教育の自立を達成する以外に、「子どもが権利主体として現実世界に参加し、真の学びと自由と自治を追求する場へ」と学校を改革していくことはできないのではないだろうか。
  それでは、学校と地域を学びと共生の場として改革する道はどこに準備されているのだろうか。
  子育てや教育を巡る地域のネットワ−クは、飛騨の「ヒマワリ学校」、郡上の「地域子ども学校」、西濃の「西濃子育てサ−クル」、各務原の「教育大集会」、そして各地における親子劇場などにおいて組織されているし、子育てと教育を直接的な課題としていなくても、生協などの消費者運動や環境保護運動や平和運動などの生活・文化運動においても、子育てと教育に関する取り組みは重要な関心事となってきている。
また学校実践としては、教室に地域の人々を講師として招いての授業をすること。教師と親とのティ−ム・ティ−チングをすること。学校行事や文化活動を子ども・教師・親の連帯で推進すること。教育の方針や実践の在り方、評価に対して、教師の代表と親の代表、生徒の代表の三者で討議・決定することなどの試みが展開されようとしている。
こうした教育実践に対する生徒と親の参加が、学校を学びと共生の場に変えていくことは明らかであろう。しかし、そのためにはまず、私たち教師が学校の内側でさまざまな支配から解放され、自由な実践主体者集団としての自立性を樹立できるどうかにかかっている。最後に、城丸章夫氏のことばを引用する。
  「学校教育が地域に根ざすということは、地域の民主主義に根ざすということであり、教育と生活の結合を地域において構造化しようということである。だからそれは、制度面をはじめとして、教科・教科外活動の内容に至まで、それぞれの独自性を堅持しながら、民主主義の必要と理想とにおいて学校教育を構想しようとするものにほかならない。そして、これらの全体を教育活動として生き生きさせ、また社会的なちからとして守り抜くものは、教師集団であり、地域の民主的諸勢力である。生活と学校教育との構造的結合は、これらがもつ民主主義を媒介とすることによって、民主的結合として、また、民主的学校構造として確立されるのである」(城丸著作集 第3巻より)
  教師と子どもと親がともに育ち合う「学びの共同体」を地域・学校に構成する努力をとおして、21世紀へ向けての教育展望は開けてくるのではないだろうか。
                                                                                                             (文責 河田)