1997年 岐生研基調提案
  
 「混迷している学校・地域を

       切り開く実践を創造しよう」
                                                                                                            基調提案作成委員会
1.進行している教育政策と学校の行方                  
 橋本政権は97年の年頭で、これまでの5大構造改革に教育改革をプラスして、その政治課題を「6大改革」にまとめた。「6大改革」とは、財政構造改革、行政改革、経済構造改革、金融システム改革、社会保障構造改革、教育改革のことである。これらの構造改革のすべてを串刺しにした改革のキーワードが「規制緩和」である。規制緩和は、そもそも国際的には新自由主義的な民活路線の流れに乗って登場したものである。新自由主義とは、市場原理に基づく競争秩序を強化し、自由競争の圧力と優勝劣敗の自然淘汰によって経済の活性化・効率化をはかろうとする思想である。この新自由主義の考えに立てば、市場における自由競争を制限したり、自由な競争秩序に公的なルールを課したりする規制は市場原理の自由な貫徹を妨げる邪魔者として、撤退ないし緩和すべきものとなる。
 規制緩和は「経済的規制」(価格規制、参入規制、需給調整など)と「社会的規制」(保険、環境保全、防災、国土利用、労働保護など)の緩和に大別され、「自己責任」「市場原理」を基本に、政府規制(法制・行政指導など)を緩和し、企業活動の自由を拡大する経済構造改革である。
この文脈から打ち出された教育における規制緩和とは何か。端的に言えば、教育における「平等・公平」に対する規制緩和だと指摘できよう。具体的には、
@理念面における平等主義に対して、「選択の自由」を強調していく。その一例が、学校選択の自由や教科選択における自由の拡大の主張である。
A権利としての平等に対して、市場原理を導入し自由競争を組織する。ここでは権利としての教育保障ではなく、能力主義競争の権威が重視された格差が容認されることになる。
Bさらに教育における平等を制度面から見直し、例えば6・3・3・4制に代表される戦後の単線型教育体系を複線化・多様化する。進学年齢の弾力化、飛び級制の導入、中高一貫教育モデルの採用、選択教科の多様化などが、その事例としてあげられよう。
 このように理念・権利・制度の面からの「平等主義」の見直しが進められ、平等に対置する形で「選択の自由」が一面的に強調されていく場合、「自由」の名の下に競争を通じて学校間・地域間等における格差や序列化が進むことが予想される。なぜなら学校間・地域間の格差や序列化を是正する平等の視点が軽視されて進められるからである。したがって「選択の自由」は、言い換えると、格差容認主義となる。というよりも、規制緩和の政策的意図に即して言えば、格差は肯定的に承認され、積極的に推奨されるべきものとなる。しかし、今日の教育の現場に必要なのは、ある学校が嫌になったら転校すればよいというような「選択の自由」ではなく、親や子どもの声を学校や教育行政に反映し、学校を一つの教育自治体に再構築することである。規制緩和論は、こうした学校・教師に対して地域が要求・意見を主張し、自らが学校運営に参加する自由を保障しない点に大きな問題があるといえる。
 一方、「生きる力」という言葉が、第15期中教審のキ−ワ−ドである。生きる力とは何か。第一次答申は、次のように説明する。「・・・我々はこれからの子どもたちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見付け自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人と共に協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を生きる力と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた」
 結論的に言えば、ここに見られるのは適応主義の教育観である。「いかに社会が変化しようと、たくましく生きる」からは、社会の変化を受動的に受入れ、これに適応する人間を育てようという姿勢が見えてくる。しかし、子どもたちを民主的主権者として育てようとするならば、「いかに社会が変化しようと」ではなくて、社会の現実を的確にとらえ、矛盾を明らかにし、仲間と共にあるべき方向へと社会を変革する力こそ「生きる力」と呼ぶべきであろう。そうした力こそを育てなければならないのではないか。ところが答申の生きる力とは、権力の支配のままに、激しく変化する社会の中で、他人と協調しつつ社会生活を送っていくための知恵であり、あふれる情報の中からすばやく必要な情報を選択し、首尾よく反応し適応する能力である。
 以上、述べてきたことをまとめれば、国家と資本がつくろうとしている学校は、子どもたちの対等・共同的な人間関係を引き裂き、社会的弱者を排除し、特定のイデオロギ−を形成していくものだといえよう。それに対して、いま私たちがつくろうとしている学校とは、国家と資本から自立した、庶民の共同的な生活を再生する力を育てる学校である。言い換えれば、国家が専有し、資本が横取りを画策している学校と教育の公共制をめぐる主導権を、私たちがかれらから奪回し、本来の意味の公共性=庶民の共同的公共制を公教育の制度内外の学校に実現していく運動なのである。そのためには、現在の学校をもっと開かれたものにし、親・子どもの参加権の行使を充分に保障していく必要がある。その点で、昨年の岐生研の中で、子どもと教師による「学習の共同化」をめざした実践(上村、河田実践)、各地域での「子育てサークル・子育て懇談会」実践(中濃、西濃、可茂支部の実践)などが報告されているし、着実に成果を生みだしてきている。道のりは遠そうに思えるかもしれないが、時代を切り開く波は、近くまで来ているのではないだろうか。

2.混迷している学校・地域現場を切り開く実践を創造しよう
国家と企業によって、学校・地域のもつ「公共性」が解体されようとしている時、私たちはどのような実践を創造していけばいいのだろうか。時代を切り開くべく実践の課題と指針を混迷している現在の学校・子どもの状況を分析する中で探っていこう。

(1)新たな時代を切り開く、世代間の協同をつくりだそう
     ーすれちがう子どもと教師ー

 マスコミなどの報道では、ヤンキ−の時代が終わって、チ−マ−が町のあちこちを徘徊していると言われている。ヤンキ−とは、暴走族に象徴されるツッパリである。ツッパリという規範を持って、先輩・後輩などの彼らなりの秩序のなかで生きてきた。チ−マ−は、そういう規範というよりは自分の基準で、おもしろければよい、楽しければよいというだけで行動しているところに、その特徴を見ることができる。価値基準を徹底的に相対化したところで生きている若者たちと言えるだろう。最近、中学校を中心に「子どもたちの荒れ」の状況があちこちで報告される。その中に「教育って、いったいなんだ!」と中堅の教師に言わせるほど、教師の指導を受け付けない子どもたちが登場してきている。報告による彼らの行動には、このチーマーと呼ばれる若者たちと共通したものが感じられる。
 子どもたちが、世間的な基準から見て、あるときを境に反社会的・反家族的・反学校的な行動に走るということは、さほど珍しいことではない。しかし、われわれ教員や世間の人たちは、そういう子どもを見かけると、まじめな子どもに矯正しようとすることが多い。世間的な規範に照らして、ひどい場合は単なる学校の基準を絶対的な価値として、そこに子どもたちを引き込もうとする。そして、子どもたちの生き方を彼等の価値観からはなかなか考えようとはしない。しかし、彼等は問題行動を取ることで、自分を確認していることが多い。その中で、初めて納得できる自分に出会っている。
 現代のように徹底した消費社会の中においては、荒れる子どもたちにとっては、個人というものは、他者からの規制を受け付けない、自由である、勝手であるという現実のなかで生きているといえる。だから、自由である、勝手であるという個人になれないと、どこかで苦しくなってしまう。世間から見て、反社会的・反家族的・反学校的な生活に浸っていたとしても、彼等はそうは思っていない。彼等の生活を反何々と判断することも教員や世間の勝手なのである。限りなく自由で勝手な個人を核とした社会・家族・学校を彼等は生きている。それは反何々というものではない。なぜなら反何々という意識を持ったときには、そのぶん、その反何々という世界にまた自分を閉じ込めてしまうからだ。だから、彼らにはそんな意識もないようである。ある面、社会も家族も学校も徹底的に相対化しているともいえる。しかし、反社会的・反家族的・反学校的という意識がないぶん、自分を明瞭にとらえる鏡もない。具体的に自分を捕らえられないぶん、自分を見失いやすい。それは何にでもなりやすい、何にでもなれるという解放感であり、不安定な意識でもある。自分の居場所や自分の姿が不透明で昨日・今日・明日という時間の流れのなかで自分をとらえているという実感もほとんどないであろう。
 では、私たち教師はこうした子どもたちとどのように接したら良いのだろうか。その一つは、どういう形でもよい、彼らに自分なりに納得できる基準を持たせることで、自分を具体的に作っていく作業(自分づくり)から始めさせることではないだろうか。そのためには、一般的な規範に依拠したことばを使用せずに、あくまで教師が自分のことばとして彼らと会話をするということが大切なのではないか。学校や社会の規範から考えるのでなく、お互いに不透明な現代社会を生きている、生き方を模索している、一人の人間として、彼らと対話する必要があるのではないだろうか。そういう対話を通して、共々に今の現実の先に広がる自分の生き方・世界を描いていくのではないだろうか。それができた時、彼らは友達という他者との対話をはじめ、自分探しの旅に出かけていくのだろう。(そういう点で、田中秀樹さんの通信「豊かさへの旅」に登場する秀樹さんと不登校生徒たちとの対話から、学ぶことは多い。)
 確かにいま、学校現場では教師と子どものすれちがい=指導の不成立と呼べるような状況が頻繁に起きている。その原因の一つに、教師がもつある価値観・規範意識を絶対化して、それを子どもたちを押しつけていることがあるのではないだろうか。しかし、60年代からの「右上がりの時代」が終了し、90年代のバブルの崩壊を境に、時代が大きな転換期を迎えている今日、低成長・不透明期に
生きてきた子どもと大人世代の価値観のちがいを越えて、共にこの転換期の生き方をさぐるパートナーとして求め合い・つながり合う必要性が生まれている。子どもと大人の世代間の協同を通して、新たな時代の新たな生き方を創造していくことが、時代の転換期に必要とされる学校・教育の重要課題であるだろう。

(2)学びのプロジェクト的実践を創造しよう
    ー学校で学ぶ意味を失っている子どもたちー

 バブル崩壊以降の子どもたちや若者たちの身体に異変が起きていると言われる。バブルの中で育った子どもたちは、ひたすら欲望をあおられ、物事を消費する身体に慣れさせられてしまっているのだろうか。確かに、物や人と交われない身体、物や人に応答できない子どもが増えてきている。
 1980年代以降は、一部の高学歴の家庭の文化資本が増殖され蓄積される一方で、多数の家庭において文化資本の貧困が蔓延する状況が拡大している。選別と序列化を通して、教養レベルによる社会的な格差が拡大しているのである。いつの時代でも、今進行している日本社会の急激な変化に対して、もっとも敏感に反応しているのは、未来を生きる子どもたちである。勉強への態度一つとってみても、将来の日本を先取りするかのように、およそ2割の子どもは勉強へと没頭するが、残りの8割の子どもたちは勉強を拒否し逃走する傾向が出始めている。かつて「進路指導」の名の下に、一定の「学校秩序」を保ってきた「受験」も「就職」も「脅し文句」とはなり得ない状況が生まれてきている。では、彼らが拒否し始めた勉強=能力主義の学習とは、どのようなものであっただろうか。能力主義に基づいた学習とは、「目標」と「計画」を立て、難行苦行の「勉強」を通して、「生きる」こととは無縁な知識を貨幣のように蓄積し、その蓄積された「学力」を資本のように投資して、差別・排除しあい、競争の社会を生き抜くことを意味していた。学習の知識は、膨大な情報の断片の寄せ集めに過ぎず、学習の意味や価値や必要は、教師・大人・社会の壁の向こうに、うつろに抽象的に存在しているだけである。子どもたちが、学びから逃走していくのは当然の帰結だともいえよう。
 これまでの学びが、ものごとを計画しシステム化するプログラム的実践であったとすれば、私たちが実践していこうとする学びは、教師と子ども相互が対等な関係の中で、異質な他者として学びあい、閉ざされた教室空間を飛び出して学校の内外の多様な人々と連がり(社会参加)、その中で、自分づくりと世界づくりを行う学びである。それは能力主義の勉強がプログラム実践と呼べるのに対して、プロジェクト的実践(佐藤学氏の言葉から)と言ってもよいだろう。

(3)異質協同の関係をつくろう
  ー希薄・孤立化している子どもたちー

 今日の子どもたち相互の関係はどうなっているのだろうか。ますます深刻化しているいじめや不登校の子どもからみていこう。
 いじめは、愛知の大河内清輝君の遺書を残しての自殺以来、日本中でさまざまな論議がされてきた。その論議の中で明らかにされてきたことは、今日の日本社会がもっている構造そのものが異質なものを認め合うというものではなく、異質を排除しようという価値観を子どもの中に形成してきているということである。もともと一人ひとりは違う異質な存在だから、その違いを認め合い、共通するところで協同するというのが必要な考え方である。公教育の良いところは、さまざまな階層や考え方の子どもたちが、一堂に会して、お互いの違いを見つめ合いながら自分の生き方を見つめていくことである。しかし、今日の学校は、能力のないものを排除したり、能力の序列を一つでも上にのぼろうと、相手を蹴落とすというものだから、いじめが起きるてくるのは当然の結果だともいえる。さらに、いじめに加わらないと、逆に「いじめない」という異質さから自分がいじめの対象になるという恐怖感から、いじめに荷担せざるをえないという状況も生まれている。もう一つ深刻なのは、いじめられている子は苦しくて逃げ出したいと思うのだが、逃げ出したら自分を受け入れてくれる友達がいなくなるという恐怖感が、いじめを受けている子を逃れられない状態にするということである。そして、我慢も限界に達したとき、相手を殺してしまうのか、自らの死を選ぶのかの二者択一の状態に追い込まれてしまうのである。誰にも助けを求められない、それほどに子どもたちの関係は希薄化・孤立化しているといえる。
 次に、不登校の子どもの実態をみてみよう。不登校の子どもから見えてくるものも、やはり孤立化である。家族まで含めて周りが自分を責めていると感じるほどに追い込まれていることが、不登校の子どもからの証言として報告されている。今日の親や教師が持つ「ガンバリズム」は、子どもへの励ましとならず、逆に子どもを苦しめている。95点のテストに対して、「残念だったね、後5点なのに。もう少し頑張りなさい」という評価をしてしまう親や教師の存在は、能力主義競争の中に子どもを追いこんでいる。ましてや悪い点でも取ろうものなら、自信を失って挫折感に苦しむことになる。95点でも嬉しくないという感情が生まれてくるとしたら怖いことである。彼らは勉強を通して自信を喪失し、学べば学ぶほど自信を無くしていくことになる。また、不登校の子どもだけでなく、現代の子どもたちは、周りの人の目を非常に気にして生きている。自分に自信がなく孤立感を持っているから、他人の目を恐れるのである。疲れを癒す居場所のない学校になんて、とても行けないという状態が生まれるのも当然であるともいえる。
 以上のことから、今日の子どもたちは、人間関係に押しつぶされてしまいそうな孤立感、生きる希望を奪いとられた自信喪失観、他人が自分を攻撃してくるという恐怖感をもって生活していることが見えてくる。最近、顕著に現れ始めた、子どもたちの「しらけ・あきらめ・荒れ」という状況は、こうした子どもたちの内面の苦悩を表出したものだと言えないだろうか。

(4)新たな家族像が求められている
ーつくられた「近代家族像」にとらわれている家族ー

 教育現場では家族問題は一貫して「問題生徒」とセットで語られ認識されてきた。家族問題は問題生徒以外にはないかのように語られてきたと言っていいだろう。しかし、現在学校現場に侵入している家族問題は、問題生徒に限定される問題ではない。96年版「子ども白書」によると、母親の状況は
・子どもが可愛く思えない…88.4%
・育児がつらいことがある…76.9%
・子どもの顔を見るのが嫌…10%
となっている。「子育ては、贅沢なしごと」と思っていた時代とは、格段の違いが生まれてきている。家族が人間関係のきずなを強めるものであった時は、子育ては楽しいものであり、子どもにとって家族は地域、学校、企業の防波堤になっていた。今日は、その論理が崩れ、親は子どもに「外」とすべて合わせることを求め、親自身もそうあろうと自分をしばるようになってきている。子ども虐待は、以前は貧困や無知などによる子どもの酷使、暴力によるせっかんというものであったが、今は普通の家庭、いやむしろ「経済状態、知的水準の高い家庭」で多く生まれてきている。ブランド商品を揃え、最新のゲ−ムを揃える「愛情」をそそぎながら、他方で精神的・心理的に子どもを追いつめているものとなっている。
 子どもに問題行動が生じれば、ただちに家族の結束によって乗り切ろうとする常識的発想からは、その子どもを家族から分離することによって治癒するという症例は、信じがたいものであろう。しかし、家族が「近代家族」モデルにのっとって結束を固めようとすることがむしろ、個人に対して無理を強いる結果を招くことがありうるのである。「いい子」できた子が、あらためて自分とは何かを考えつめたとき「両親の評価」がいかに自分を縛ってきたかという事実に気付き、精神的親殺しに取り組まざるを得なくなっている状況もある。つまり「近代家族」モデルにのっとった規範の力は、きわめて絶大であって、それが個人を滅ぼすこともあるという事実にも現代はつきあたっているのである。現在は、この「近代家族」モデルの徹底的な相対化が、不可欠であるように思われる。こうした見地に立たなければ、離婚率の増大、事実婚、未婚の母、子をもたないカップル、同性愛カップルの増大などは、近代家族モデルからの離反現象であり、次なる家族の姿の模索過程に現れる家族の多様化現象として、積極的に位置付けることができないであろう。そればかりか、こうした家族像の見直しの視点を持たなければ、教室の子どもたちを指導することができないだけでなく、自分の子への接し方も分からない状況が生まれてきているのではないか。なぜなら、先に述べた子どもとのすれ違いは、わが子との間でも生じている教師が増えてきているからである。そのことの実態は、「子育てをしている教師の半数以上がそうした悩みを、しかもかなり深刻に持っている」(生活指導4月の浅野誠 論文から)と指摘されるほどである。
規制緩和により、「自己責任」・「市場原理」の論理が社会を支配していけば、階層分化の拡大と家族の孤立化は、ますます深刻化していくだろう。そうしたなかでは、家族内のトラブルは家族の内に閉じこめられ、家族の力で解消していくことがますます当然視されていくことであろう。しかし、閉鎖された家族の中でのトラブルが、いかに恐ろしい結末を生み出していくのかは、昨年の埼玉で起きた「父親による息子殺害」の事件が物語っている。私たちには、「近代家族像」から「地域共同的な、開かれた家族像」へと家族像を見直していくことも、実践の視点として必要とされているのである。

3.創造的実践の展開しよう
ー実践のポイントー
(1)「子どもの権利条約」を生かした実践
河田実践。
(2)教師の「固定観念」と「子ども観」の転換
加藤実践。
(3)「学び」の改革
上村実践。
(4)「癒し」と「自分らしさ」
桂川、 田中秀樹実践。
(5)学校に民主主義の風穴を
佐藤実践
(6)地域との共同
谷口、細江実践
文責 河田