学びの共同体としての
学校を創り出そう
1998.6.27 岐阜生研基調提案作成委員会
1.岐阜の教育をめぐる情勢の特徴
昨年度は日本の社会全体を震撼させるような事件が続発し、我々教育に携わる者の認識や生き方が問われたのは当然としても、それに留まることなくこの社会全体の進み往きに根本的な反省を促すものとなった。その代表的な例が神戸の連続小学生殺傷事件、栃木の女教師刺殺事件であろう。これらの事件は、現代における子ども・生徒の対他関係の中に孤立化と権力化、閉塞化が一層進み、それからくる苦悩、不安、精神的外傷が以前にもまして深まっていることの証とみることができる。岐阜でもこれらの事件と通底する新たな子どもの荒れがいくつかの事件や各地区の学校状況の中で報告されている。
今後の対応には予測として二つの流れが考えられる。ひとつは新たなる管理主義と「心の教育」が表裏のセットで強化される方向である。すでにナイフ事件にかかわって、その危機感から何人かの校長が学校説明会で「これまで以上にいっそう道徳教育を推進する」という一方で「持ち物検査を実施する」「非行問題行動を起こす生徒はうちの学校へくるな。」などと矛盾した内容を公言している事実がそれを示している。
しかもこの流れは、問題行動を管理と「心の教育」で押さえ込んだ後に、上からの力技による一大教育改革という濁流を呼び込むことが考えられる。もはや小手先の改革では、垂直構造下の現在の学校と学びの荒廃に歯止めがかからないことがはっきりするや、それを口実にした改革に乗り出す。それは先の経済同友会の合校構想をひとつのモデルとした、教育と学校の公共性の破壊をもたらすものとなる危険がある。]
岐阜の管理主義的な学校教育状況は以前から指摘されてはいたが、その背景にある権威主義的、権力主義的教育支配の傾向はますます強まっていることからすると、この流れは当然加速してくるであろう。岐阜の教育支配が管理主義的方法で物言わぬ教師と子どもをつくり出すことにある程度成功したのは、権威主義がその裏付けとしてしだいに浸透させられていったからだと思われる。逆に言えば岐阜の学校・教師は「権威」というものに対してあまりに無警戒すぎたのではないか。岐阜大の吉田千秋氏が著書「もうひとつの価値観」の中で「権威なき教育」を提唱されているが、早急に検討してみる必要があるだろう。
そしてそれとは異なるいまひとつの流れは、地域・父母、教師、生徒の参加と自治による教育と学校を再創造しようとする下からの教育改革の潮流である。全生研佐賀大会での父母の参加と意見表明、「おやもりの会」の実践報告、岐阜でも可茂、西濃、中濃等で新しい親の学校参加につながる動きが息づき始めている。 その背景には子どもの権利条約や憲法の精神を拠り所とし、「権威主義的」な力に対抗して子どもや親の人権と諸権利を擁護し、学校を地域に拓いていこうという思想が流れている。
これらの動向に注目しつつ今、岐阜生研に求められているのは、このような地域や親、生徒との願いを共有し、この流れの中核としての役割を果たしていくことであろうと思われる。
2.学級集団づくりの実践的な課題
@民主的な対他関係の指導
学級集団づくりは「子どもと子どもの関係」「教師と子どもの関係」の民主的な組み替えをテーマとし、集団の中での個の自立と解放を目指して取り組まれてきた。しかし学校のもつ制度的な枠組みにとらわれたり、子ども相互の関係の変化や現代社会のメディア等の影響的変化により、かつての指導や実践が難しくなってきている。だからといって岐阜生研は彼のテーマを放棄するのではなく、新たな実践の地平を切り開くことが必要なのである。その視点としては、いわゆる「寄り合い期」の実践を、よりいっそう丁寧に展開していく必要があると思われる。
それは例えば、寄り合い期において討議づくり、討議・討論、決議・決定、自主管理等の指導、リーダー・班長・班長会の指導のあり方、班やグループの指導などや、指導の困難な子どもへの接近、彼をとりまく集団への指導、およびそれらと文化的実践との統一的な追求の実践である。さらにそれらの指導を丁寧におこなっていくことで、子どもの民主的な交わり、関わり方、人間に対する見方を指導していく必要がある。
・桂川実践等
A指導の困難な子どもとの出会い
岐阜の中では、指導の困難な子ども、家庭崩壊の中で発達のもつれやパニック傾向を示す子どもを取り巻く実践が弱いのではないか。ここ近年の実践報告では、このような実践の報告自体が少ない。その中でも中学の中沢氏の実践や小学校の加藤氏の貴重な実践報告があったが、いずれも生徒指導主事として困難な生徒や子どもに関わった実践であるので、教師が悪戦苦闘する中でどのように子どもとのすれ違いがあり、どう出会おうとしたのかの実践報告であった。その分析の中で教師と子どもが何故に今すれ違っているのか、どうすれば出会うことができるのかの糸口が明らかになってきたのは大きな意味がある。そして今後実践的に明らかにしていきたいのは次のようなことである。
一つは、指導の困難な子どもの内面を分析しながら、彼に学級と交わる力と技をどう獲得させていくかということである。今ひとつは彼を取り巻く学級集団の側に、彼と改めて出会い、彼と交わり関わっていく力と技をどう獲得させるかということである。そして第三に、彼の学校や教師と彼との新たな出会いをどう演出し創り出すかということである。
B自治と自主管理の実践的問題
最近の実践では授業・学びについてのものや個にかかわったものが報告されてはいるが、その背景で学級の自治的活動や規律についての取り組みがどのように取り組まれているのかがなかなか見えてこない。小学校や中学校で「荒れ」が報告されているが、最近の学校における規律面を含めた自治的諸活動はどうなっているのだろうか。教育実践は管理を否応なしに伴うものである。それが教師や学校の支配としての管理主義的実践に終わるのか、それとも教師の管理権がやがて子ども・集団の内部の力によって自覚的に行使される世界を築いていくのか。それが具体的実践の世界で論議されることは少なくなった。しかし特に若い教師ほど学級構造の枠組みを考えていく時に自治や規律の問題をどう子どものものにしていくかは重要なテーマである。今日の「荒れ」の問題とは、子どもの世界に友情と自治と自覚的規律の世界を柔軟かつ豊かに展開できない教師や学校の問題なのである。その意味で若い教師ほど、この問題についての具体的な実践提起を待ち望んでいるのであり、岐阜生研にこそそれが求められているのである。さきの河田氏の「学級構造どうなっている」の問題提起は、それへの具体的な実践提起の要請でもあったのである。
3.授業と「学び」の改革
現代における価値観の潮流を「新自由主義」と呼ぶことがある。徹底した規制緩和によって何でもかんでも自由競争の市場に投げ込まれていくのである。このような空気は確実に青少年の中にも浸透してきている。ポケベル、携帯電話、ピアス、ルーズソックス、さらに援助交際や殺人など、かつては大人社会にしかなかった現象が、しだいに子どもの中にまで入り込み、今はボーダーレス(境界がない)化している。もはや「人に迷惑をかけなければいい」を通り越して、「他人の権利や人権を侵すのも自由」という「何でもあり」の新自由主義的状況である。現状をあまり否定的にだけは見たくはないが、このようなモラルなき状況に青少年がからめ取られていった一因には、学校の「学び」や授業の問題があるのではないかと私は思うのである。これまでの学校での学習は、この情報氾濫の時代に、生徒たちが情報の受け手や発信者として生きる力を付けてきたのだろうか。
例えば某アイドル歌手を使ったエステのCMがTVで流れれば、世の中あげてブームになり、「アムラー」などという現象が起きる。美人といえば「痩せて目パッチリ」となり、整形手術が流行ったり拒食症になるまでダイエットをする女性まで出る。別の男性アイドルがTVドラマの中でナイフを持てば、必要ないのにそれを持ちたがる若者が増える。マスコミの商業文化によって価値観や嗜好まで均質化してきているように思われる。そしてその均質化の中で同調傾向が強まり、逆に異質なものを排除する、いじめるという傾向まで助長されているのではないだろうか。
現代にあっては、良くも悪くも情報は、それによって何らかの利益を得ようとするものによって操作される。そのモラルや意図、姿勢は問われるべきだろう。しかし一方、子どもたちにはそれらの情報に接し受け取る、あるいは発信するものとしての健全な批判力というのは果たして育っているのだろうか。総体としてそのような力が育ってきているのなら、現在のような「何でもあり」という状況にはなってはいないのではないだろうか。
もしそうだとすれば、これまでの学校教育、その中での授業では「これは本当にそういえるのだろうか」「本当かどうか調べてみよう」というような批判的に学ぶ力を培うことが充分にはできていなかったのではないかと疑ってみる必要がある。
例えば我々の授業というのは(道徳も含めて)、教師が正しい、あるいは善であるととらえている事象や価値を、そうとしか読みとれない資料を使って生徒に与える、あるいは誘導するという「正解中心主義」に陥ってはいないだろうかと疑ってみる必要があると思うのである。もちろん教科の内容の中には学び方の基礎基本としてノートの取り方まとめ方、予習の仕方、発言の仕方、班や全体での話し合いの仕方、資料を使っての調べ方、発表の仕方など、教師の指導により教える中身は当然ある。しかしその学習効率の良さにもたれていると、しだいに教師は授業の中でいつも正答を誘導し、生徒に与え続けることになり、結果として生徒は教師から与えられるものや教科書の内容を疑いなく無批判に自己の内側に取り込んでいくようになるのではないか。
そうすると生徒は外部から与えられたものに対して、それが正しいのか、自分にとってどういう意味をもつのかということを吟味、検討し判断していく健全な批判力と主体的な判断力とをしだいに失っていくのではないだろうか。
子どもの学びを制度的な知識を溜め込むものから批判的な学び、勇気ある知性へと変えていくには、単に授業だけを変えるのではなく、主体的な参加を目指した学校を築き出す実践との並行した追求が相互に影響し合って進められることが重要ではある。しかし現在の中学ではそれはなかなか困難であろう。別の言い方をすれば、中学ではむしろ授業と学びの改革が生徒を励まし、学校参加につながる実践状況の芽を吹かせることになるのではないかと思われる。
ともかく昨年度の学びと授業づくりの構造表をさらにたしかなものにしていくために、今後の実践的追試と検討が必要とされる。
・参考実践〜河田実践、上村実践、田中忠実践、佐藤実践
(文責 田中 秀樹)