新自由主義と新保守主義

竹内常一

 腹部大動脈瘤が発見されて以来、憂鬱な日を送っています。その憂鬱をまぎらわせるために、2000年度全生研基調提案について発言します。

 基調提案についての補足は大会当日の大阪の支部集会でやりました。それについての感想を聞かないままになっていますが、どうだったのでしょうか。

 といっても、その席にいなかった人には分からないことなので、そこで問題にしたことを追々のべることにして、今日は新自由主義が強まれば強まるほど、それは新保守主義を招くことになるという件について論ずることにします。

 大会のあと、文芸研のシンポジュウムに列席しましたが、新自由主義と新保守主義との関係把握ができていると思われませんでした。新自由主義が規制緩和をつうじて逆流する資本主義の様相をとり、国民国家を破綻させればさせるほど、新保守主義は擬似的な国民国家を前面に押し出してくるでしょう。このような情勢把握の仕方をめぐって各地の状勢が分析される必要があるのではないでしょうか。私は高生研から全生研にきたので、全体会に間に合いませんでしたが、ここのところについてどのような論議があったのでしょうか。

 ところで、擬似的なというのは、たとえばワールド・カップは本当に国対国の試合なのでしょうか。国籍を簡単に移す選手に依存する国々の姿は、日本の国体と同じですね。そうだとすると、君が代・日の丸の担い手とは一体だれなのでしょうね。フランス国旗の担い手もね。国境を越境するスポーツは国を代表するのでしょうか。

 それが4年先にやってくるのです。2002年は学習指導要領の全面実施の年ですよね。

 擬似的なナショナリズムにたいして真性のナショナリズムを対置するとなると、公共圏ー公共空間というものをどう構成するか、その際日の丸・君が代を排除するのか、それらを否定して公共圏を構想するのか、この問題を避けて公共圏を構想することができるのか、といったやっかいな問題に対面しなければならないでしょうか。

 今回の基調提案が、荒れる子どもの現実に直接触れることがなかったことについて大阪支部や京都支部に不満があったことを知っています。しかし、私は基調提案が学校協議会について言及したことは正しいと思っています。その説明が不十分であるにしてもです。

 さきに述べましたが、新自由主義政策による教育の自由化・商品化・市場化がすすめばすすむほど、ありとあらゆる教育の営みは商品としてのサービスとして評価されるようになります。それは公教育学校の教師の教育実践についてもいえます。いまの教師の辛さは、自分の教育実践そのものが消費者的な感覚でもって安易に値踏みされるところにあるのではないでしょうか。いや、そればかりか、子どもたちでさえ消費者的な冷たさで教師の実践を値踏みするようになっているのではないですか。私は子どもたちの「くずれ」ともいうべき「荒れ」を煽動しているのは新自由主義的な市場感覚ではないかと思っています。

 消費者感覚的な教育サービスの値踏みは、当の本人自身が教育の主体であり、学習の主体であることを自覚していないという決定的な問題があらわれてくるでしょう。今回の基調提案は、このような問題状況を先取りして、それにどう対抗すべきかをのべたものとして読んだらどうなるでしょうか。

 新自由主義がこの側面に目をつけて、子どものによる教師の授業評価を組織し、それでもって教師の人事考課ー勤務評定ーを行おうとしているのです。その先導的な試行が橋本知事による土佐の教育改革として始められているのです。大阪府は6000人の公務員の人員整理を公表し、そのうちの4000人は教員でもって行うといっていますが、それを具体的にどのようにすすめようとしているのでしょうかね。恐らく大阪府も東京都も土佐の教育改革ほどのものとはいえないまでも、なんらかの教員評価の方法をもちだしてくるでしょう。

 このような新自由主義的・新保守主義的な教員統制は秋に予定されている教育職員養成審議会の第二次答申にさらに具体化されて登場してくるでしょう。今回の基調提案は、このような問題状況を先取りして、それにどう対抗すべきかをのべたものとして読んだらどうなるでしょうか。

 私などはこのような観点からみているので、今回の子どこの動きを「新しい荒れ」などという言葉で名づけするつもりはないのです。そのなかには、新自由主義によって先導・煽動された公共空間にたいする攻撃的な・破壊的な暴力性があるとみています。そのあたりが、全体的に心理主義化している論調と私の考え方の違いなのかもしれません。

 このような観点から滋賀の植田一夫君の学校づくりの試みをどう評価するかあらためて議論する必要があるのではないでしょうか。