発達要求と発達課題

司会として全体分析のまとめをうまくすることができませんので、 次のような岐生研MLの議論で提案させていただきます。

(上村)
安田さんのレポートを何回分析したことだろう。
でも、そのたびに新しい視点や学びが見つかる。優れた実践の持つ力なのだと感じる。

実践したそのクラスはすでに消えてしまっているけど、 そこに書き出された空間は今も確実に存在している。
その時のクラスの状態というのは、 すでに(教師の)思い出の中だけにしかなく、それも消えつつある。
でも、それは今現在の子どもたちとの空間でも同じことなのだ。
誰かに発掘されなければ、消えていってしまう。
私たちのまなざしだけが、子どもたちの新しい世界を掘り起こし、新たな生活を切り開く。

さて、学習会のことを一つだけ記録しておこう。
それは、分析の柱についてだ。

柱は
(1)市村をどうとらえるか
(2)この国語の授業はそういう市村の課題に答えるものであったのか

そして、時間の関係で一つにまとめた。
◎「この国語の授業は市村の(発達)要求に応える学びであったのか」

 市村の発達要求(ねがい)とは何かを読み解くことが中心になっていった。安田さんは授業こそ分析して欲しいと願っていたが、やはり市村の発達課題についての意見が多く、時間のほとんどを使ってしまった。
 皆四苦八苦しながら、市村自身の発達要求を読みとろうとしていた。寂しさをわかって欲しい、自分を認めて欲しい、やってしまう自分を何とかしたい、できない自分も受け入れて欲しい、家族の中に居場所が欲しい・・・等。

 ところが、小室さんは、まとめで市村の「発達課題」は「先を見通す力をつけること」と言い切られた。
 これは、市村自身の要求とはいえない。しかし、彼の認識力と行動とのギャップを考えると、市村の課題として自然なものだと思われる。
 とすると、私たちは市村自身の発達要求と、私たちが客観的に見る彼の発達課題とを分けながらとらえていく必要があるのではないか。
 これが私が司会者として不十分であったことを含めて一番感じたことであった。


各務原の安田です。
上村さん。本当に司会、ありがとうございました。
さて、上村さんのメールにresします。

「ところが、小室さんは、まとめで市村の「発達課題」は「先を見通す力をつけるこ と」と言い切られた。 これは、市村自身の要求とはいえない。」

はたしてそうでしょうか。ぼくは、小室さんの分析はすっきりと腹に落ちました。
 市村は、自分で意図していない事件を数々起こしてしまう子です。「草に火をつけ たら、どうなるんだろう。」という興味半分でやったら、大騒ぎになった。「自分が 万引きするわけじゃないから」というつもりで見張りを引き受けたら、見つかって一 緒に叱られた。「泳げないやつも、水を怖がらなくしたい。」というつもりでやった ら、大ごとになってしまった。
 市村自身が思っていたのではないでしょうか。「どうして、やることなすこと裏目 に出るんだ!」「自分の意図したように、どうして結果がついてこないんだ!」そん ないらいらがふてくされという表現を取っていたのではないか、と今は思えます。

寂しさをわかって欲しい、自分を認めて欲しい、やってしまう自分を何とかしたい、 できない自分も受け入れて欲しい、家族の中に居場所が欲しい・・・等。

 という皆さんの分析も的外れではない、と思います。でも「自分を認めてほしい」の はどんな自分なのか、「できない自分」とはどんな自分なのか、を突き詰めてみる と、「見通しが持てない自分」に行きつくように思います。もちろん「さびしさ」も あります。

 小室さんは、「発達要求とは、掘り起こすもの」という表現をされました。「見通 しが持てるようになりたい」という要求はひょっとすると市村の意識にはまだ上って いないかもしれません。であるならば、どのような手立てで気づかせていき、ともに 取り組む仲間を作るのかが問われているのだなあ、と思いました。


(河田)
上村さんと、安田さんの応答に興味が沸き、横レスをすることにしました。

1 市村の要求=「寂しさをわかって欲しい、自分を認めて欲しい、やってしまう自分を何とかしたい、できない自分も受け入れて欲しい、家族の中に居場所が欲しい・・・等。」
2 市村の発達課題=「先を見通す力をつけること」

 上村さんは、「この1、2を分けてとらえる必要があったのではないか。」と述べます。それに対して安田さんは、「市村の要求の中に、先を見通せないことで事件を引き起こす自分を受け入れてほしいという要求が内包されている」と1に2が含まれているとして捉えます。
 私は、この二人の考えの相乗に、安田レポートのキーポイントがあると思います。安田さんのレポートは、「太郎こおろぎ」の授業を通して、市村に対する理解を深める集団をつくろうとした実践だと思います。
 太郎の表面的な意地悪の裏にある、性根のやさしさ、理解されない苦悩を読み開くことによって、市村の行動の裏にあるはずのやさしさ、悩みについて、読み開こうと試みた実践です。文学作品としての太郎は、この学級集団に受け入れられています。それは、この集団が太郎の性根の部分のやさしさを受け入れているからでしょう。
 対して市村は、集団の中に居場所がほしいと思いつつも、それができないままの現状に寂しさを感じています。
 そこから考えれば、市村の要求実現は、集団側が達成すべき課題になるものです。つまり、市村の要求は、それが発達課題だと集団側に認識されることによって達成されていくものなのです。
 では、集団側は、どのようにして市村の要求と発達課題を認識するのでしょうか。それは、「自分も同じだ」という共感からです。「先を見通さずに、ついその場のやりたいことを優先して失敗することは、私にも誰にでもある」という共感です。人が他者を受け入れるのは、他者の中に自分と同じものを感じるからでしょう。それがないと、他者を理解できません。そういう距離を置いた付き合い方もありますが、市村の場合、欲しいのは居場所ですから共感が必要です。
 その点からレポートにもどって考察すると、太郎が集団に受け入れらているのは、太郎のことを理解する集団がそこにあるという読み開きが大切になります。そこから、「では、この学級は、みんなのことを受け入れているのでしょうか」という課題に向き合わせる。
 そして、市村が引き起こしてきた事件の読み開きを行い、市村の行動の失敗が「自分の中にもある先の見通しの無さによるもの」が引き起こしていることに気付かせていくことにあったのではないでしょうか。
                         河田 秀明


(上村)
河田さん、すごいなあ。
フィリピンに居ながら実践分析に参加しているのですから。

そして、私が軽く書いたところを、安田さんが深く読みとり、 さらに河田さんがその意味をえぐり出すという、 分析の醍醐味を味あわせてもらったことに感謝します。

「発達要求を掘り起こした時に、それは自他共に発達課題なる」というところは、私も安田さんと同じように考えています。
 ただ、分析の司会をしていて、参加者が市村に寄り添いながらレポートから彼の発達要求を読み取ろうとして苦労していたのが(それは私の司会がまずかったからですが)妙に印象に残ったのです。
 だから、「発達要求と発達課題をわけるべきだ」というよりも、発達課題としてとらえた方が分析はしやすかったのではないかと思ったのです。
 これは、藤井先生の提起「発達要求をどう読み開くか」につながるのですが、発達要求は子どもの側に重点があるがゆえに、実践的に分析しにくいのではと思ったりしました。
 河田さんはそこを統一して実践的な提起をしています。

 つまり、「個人の発達要求を掘り起こしていくことによって、それを集団が認識し、その要求が集団の発達課題として立ち現れてくる」という優れて実践的な提起は目から鱗が落ちた感じがします。
 発達要求をどう掘り起こしそれを集団の発達課題として共有していくのかという実践提起は、「太郎こおろぎ」を太郎のことをクラスの集団が受け入れていたという読み取りも含めて、あくまで集団づくりを柱にした河田さんの目でしか見えないものだったと思います。


(小室)
発達要求と発達課題の違いってなんだろう・・・と また考えるテーマをいただきました。

竹内先生は「子どもは必要を知っている」とおっしゃったことがありました。
子どもがすでに知っている「必要」を指導者がとらえられるか、 子どもから少し見え隠れしている「必要」を指導者が感じ取り、本人と共に掘り起こすことによって本人の「要求」として明確にできるか、そしてまたそれを集団で共有することにより自治につながるのかな・・・などと、いろいろ考えています。

私の分析・・・というか感想というか・・・
それをまた引き取って、さらにふくらませていただいていることに心からありがたく思い、また、私も学ばせてもらっています。

私は発達要求と発達課題を分けて捉えていないですね。
まったく同じなのか、重なり合っているのか・・・
今後も学習でさらに考えていきたいと思います。


 愛知のちだです。
とても刺激的な議論がなされていて、つい、書いてみたくなりました。岐阜のみなさんは、いつもこんなやり取りをされるんですか。ずっと先を行ってるなあと思います。
 皆さんの意見におおむね賛成です。唯一つ。
「先の見通しを持つ」について。もう少し、複数の可能性や場面を分析したほうがいい のでは。
 見通しがもてないと言えばそうですが、何より、その場の欲望に流されてやりたいことをとめられずしてしまうのが市村なんじゃないですか。また、仮に見通しがもてたとしても、その先に幸せがなければ、せつな的にその場の欲望に走るのではないでしょうか。
 しかし、そんな幸せな見通し、大人でも私たちでもなかなか持てませんよね。
 でも、こういうことをそこに見て取ることで、欲望に走ってしまう共感、先の見通しがもてないことの共感が、集団に生まれると思います。その点で、河田さんの意見に賛正です。
 <友達が声をかけてきた。がまんしてみた。その後、友達が喜んでくれた。>こういう経験を私なら教室でたくさん作ろうとすると思います。
そういう他者があらわれることが、見通しにつながると思います。見通しの持てる自分を自分が持つこと。自己と自己との関係にも必ず他者が、介入、反映しているのだと思います。

 発達課題を認識し、自分に対して当事者性を持つことができるそのとき、それは発達要求 になるのではないでしょうか。皆さんがいうように、それは、集団のささえや存在があればこそできることなんだと思います。


(上村)
地多さん、応答ありがとうございます。
インフルエンザに罹ってダウンし、すぐに返事ができなかったことをお詫びします。

「先の見通しを持つ」というイメージをさらに豊かにしてくださって ありがとうございます。
特に次の部分、

> 発達課題を認識し、自分に対して当事者性
> を持つことができるそのとき、それは発達要求
> になるのではないでしょうか。

は、知多さんの実践に裏打ちされた提起だと受けとめました。
そして、
「当事者性は、集団のささえや存在があればこそできることなんだと思います。」 というようにまとめてもよろしいでしょうか?


(ちだ)
ていねいに受け止めていただき、ありがとうございます。当事者性について取り上げてくださり、うれしいです。そのとおりまとめていただけるとうれしいです。
 当事者性は、「二者関係」でイメージされると思います。でも、今回の話で言うと、三者関係(他者の他者、複数の他者)のなかでこそ、発達要求を実現することができるんだとおもい ます。私も参加してきた不登校の会でも、異質な他者に出会う中でこそ、様々な要求運動が 展開していきましたから。
 つまり集団(三者関係)のささえや存在があればこそ、と言うことです。
 言ってるだけではだめなので、私も今の実践で闘争中です。ボランティアの実践ですが、子どもをどう変えたのかにこだわり考えています。東日本大震災のボランティア実践を通して、もともとしていたボーイスカウトなどのボランティアをやめていき、ひいていき、少年期の遊びの世界を広げようとする偏頭痛で悩む4年生の女子がいるんです。いまこんなところを実践中です。  そのさわりを生活指導誌の3月号に書きました。 よかったら読んでください。
 相手に出会うことで自分の周りの三者関係を変えていく。(周りの三者関係に変えられていく。)そんなことを意識しています。


○「当事者性を立ち上げることができたのか」と「発達要求は何か」
学習にはどこかよそよそしいものと、将に目の前に立ち上がるものがあります。地多さんはそれを当事者性と呼んでいます。
これをとりあげるのは、私の中にずっと疑問があるからです。それは子どもたちの様々な体験は認識を深めているのだろうかという疑問がずっとあるからです。


当事者性とは、自分の中の生き辛さをくぐりぬけ、自分の何かが変わること。そしてそれは、 三者関係(他者の他者、複数の他者)のなかでこそ、発達要求を実現することができる。

要求の認識は「自分も同じだ」という共感からです。「先を見通さずに、ついその場のやりたいことを優先して失敗することは、私にも誰にでもある」という共感です。人が他者を受け入れるのは、他者の中に自分と同じものを感じるからでしょう。それがないと、他者を理解できません。


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