2003年度     岐生研 基調提案

     「対話の広場づくりから集団づくりへ」

1. 岐阜における子どもと学校,教育実践の情勢

(1)はじめに
         ------------------------------------------------------------
 今、学校の中で起こっている全ての事態は「有事体制」づくりに向けてのものである。政治・経済・ 医療などの中でも同様の自体が起こっている。「美名の元にかくされた悪」を注意深くこばみつつ、「1ミリたりとも後退しない」(辺見 庸)決意を固めていきたい。
         Think globally,Act locally(新版学級集団づくり入門・中学校より)
         ------------------------------------------------------------
 昨年度の基調の最後の部分が、今、現実のものとなりつつある。有事法制と連動した教育基本法の改悪の動きも風雲急を告げている。岐阜県では、不適格教員問題に加え、他県では例をみない指導力不足教員問題が教職員の最大の関心事になっている。

 こういう事態の中で、「1ミリたりとも後退しない」決意をさらに固めつつ、「Think gllobally, Act locally」の立場で、全世界の平和を求める人々と手をつなぐ実践、「子ども・父母と共に生きる世界・生きるにあたいする世界」を創造していく実践がますます求められてきている。

(2)現状を切り開く実践と研究を求めて

  一昨年度の基調では、三つのことを提起した。
   @「教師をやめないこと、続けること」が、一つの大きなたたかいである。
   Aそれは、「断固として、今、教師として生きる」ことの、新たな自己決意・自己確認である。
   B子どもと子どもの関係、子どもと親の関係、親と親の関係、教師と教師の関係をつくりなおし、「共に生きる世界・生きるにあたいする世界」を創造していくこと。

 昨年度の基調では、それらをふまえ、以下の提起をした。
   @多忙化の実態を明らかにし、それを克服する対話と手だてを明らかにする。
   A関係性の再生がどう進んだかを明らかにする。
     ・暴力を越えて、どう平和的な関係性を築いたかに焦点をあてる。
     ・学級集団づくりの構想(班・核・討議づくり)の新しい展開。
     ・地域にある「子どもらの学び場、居場所」との連携。
     ・親同士の「それ自体が生きる支えとなる関係性」(山本敏郎)づくり。
   B「総合的な学習の時間」への対応を明らかにする。
     ・子どもらの求めている「学び」をどう創り出すか。
     ・「領域としての総合学習」ではなく「視点としての総合学習」からの授業をどう創り出すか。

 AとBについては、研究総括にあるように、様々な実践が取り組まれ、合宿研での実践分析のレポートとして報告されたり、「教育ぎふ」や「生活指導」誌に報告されたりしてきた。

 今年度の重点は、「実践が勝負。子どもと父母の声を聴いた実践をどれだけ積むかだ。」(各務原サークル、伊藤氏)に集約されている。たとえ教育基本法が改悪されようとも、子ども・父母からの信頼があれば、恐れるものは、何もないのである。そのような信頼関係をつくらせないための攻撃が、次々に打たれてくるに違いない。だからこそ、わたしたちの研究と実践の有り様が、これまで以上に問われてくるのである。それは、文部科学省に忠実な岐阜県政・県教委のもとでは、ある意味では厳しいものになるだろうが、岐阜県の子ども・父母だけでなく、日本の、いや全世界の平和を求める人々と共にあることから言えば、人類の希望にそった道なのである。そこに確信を持ちつつ、具体的には、以下の実践に力を入れていきたい。

 @平和的な関係性づくりのための「対話のひろば」をつくるために、どのような手立てで、どんなことを話題化しながら展開していくか。
 A参加と自治に開かれた「学び」をどう創り出すか。
   B子ども・父母・教職員による学校協議会づくりへ向けた実践を、どう意識的に追求するか。

 学校協議会づくりは、2000年の基調提案で提起されているが、これまで本格的な追求はされてきていない。「有事体制」が本格的に展開されようとしている状況のもとで、わたしたちの「教育実践の自由」を保障し、より豊かな実践を構築していくためには、そのための「砦」づくりが不可欠なのである。子ども・父母の声を聴きながら、子ども・父母からの信頼を得、それを「学校協議会」づくりへと結実させていく。そういう方向性を強く持った実践を追求していきたい。


2,子どもとの対話を通して集団づくりへ

(小学校低学年)

 対話を話し言葉を介して他者との関係づくりを行うこと、とだけとらえると小学校低学年の場合は難しいだろう。私が低学年の子どもたちとの対話で大切にしているのは、からだを介してのごっこ遊びであり、彼らの否定的な言動(言葉にならないものも含め)を聴き取りつつ、それを彼らが言葉化できるようにしていくことである。そして、いずれ子ども同士が互いのわけを言い合い聴き合える関係をつくっていくことである。そうするためには、彼らの言動の背景にある生きづらさに共感し、それを他者との関係性の視点で読み解いていくことが重要になってくる。以下、実践に沿って述べる。

 私は言葉を話すことができ難い静男には「怪獣ごっこ」を通して関係づくりを試みた。「静男怪獣、待てー。」と言って私が追いかけていって倒すと彼は逃げたり、「清、怪獣。」と挑発したりするような場面が現れてきた。また、「いい子」に囚われていた啓介にも、「ミサイル攻撃」と言いつつ彼をつっつき、活動に誘い込むようなことを試みた。彼は笑いながら活動にのってくる場面が出てきた。それらのことは、ごっこ遊びを通して彼らとの応答する関係が生み出されたということだろう。

 しかしそうなったからといって、すぐに彼らとの対話ができるようになるというわけではない。応答的な関係の中で、彼らは今まで抱えていた否定的な自分をくずし始めるからである。静男は自分の要求を暴力で現すようになり、啓介は嫌なことはやらないことで彼の要求を表現するようになった。そこで、彼らの言動を否定的だからと言って「厳しい指導」で押さえ込むことは簡単かもしれない。しかし、そうすることは、彼らの言葉にできない要求を閉じこめてしまうことになり逆効果である。私は静男の暴力に向き合う中で、彼の言葉にできない要求を言葉化したり、それを学級の子どもたちと読み解く話し合いを持つようにした。そんな中で、彼の暴力は少しずつ減っていった。それは彼が、自分の要求を暴力でなく言葉で表していくことで、周りもわかってくれると気づいたからなのだろう。

 俊彦の場合も同様である。「一人の方が自由でいいね。」と彼はつぶやいた。私はその話をまずはじっくりと聴いた。彼は「大人としか話さない。」と引き継ぎがあり、他者に対して強い言葉を投げかけ、時として自暴自棄になったりする子だった。私は彼の言葉の裏に仲間と関わりたいけど関われないつらさを読み、彼の得意なひこうきを通して仲間との関わりをつくれないかと、彼と共に「ひこうきくらぶ」を学級に提案した。好きなことで関わる自由参加の活動である。その中で、お互いの思いを言葉化し、つなぎ合わせるのである。俊彦は初めは蔑んでいた啓介にも、ひこうきの作り方を教えたり、投げ方を一緒に練習したりして遊ぶようになっていった。また、啓介も自分の要求を言葉で表すことができるようになっていく。そして、お互いの見方を変えていった。

 そうしたことから考えるならば、やはり彼らの否定的な言動(言葉にならないものも含め)を聴き取りつつ、それを彼らが言葉化できるように対話をしていくこと。また、仲間と共にその背景を読み解いていくような対話をしていくこと。そして、それぞれが言葉化した言葉をもとに対話をつくっていくことが大切になると思うのである。

 <注>益田川 清「一年生の物語を織る」(『生活指導』'03年2月号)を参照。

3,どのような「学び」のテーマを設定するか

(1).子どもたちの状況と学び

個人化と商品化を特徴とする消費社会の進行は、子どもや若者の階層的な棲み分けを押し広めている。そして、自分が傷つかず、相手も傷つけないという他者への気遣いを「やさしさ」とする希薄な関係を形成させている。一緒の学級にいながら、本音を隠し、「仮面」をかぶっての付き合い。友達との遊びとは、誰かの家に集まり、それぞれが好きなゲームや漫画に興じること。こうした子どもたちの孤立化している状況を折出氏は「アトム化」と述べている。

学校、地域、家庭、子どもたちの生活する場が階層化、序列化していくなかで、子どもたちは対等な関係を築き上げる空間を消失している。現代の学校は、子どもたちの関係を再構築し、共同社会をつくりだす空間としての役割を担っていく必要があるといえよう。その一つの手立てとして、子どもたちの関係をつくり直すための「学び」とは、どのようなものか、その学びの「テーマ」や「学習過程」のあり方を探っていきたいと思う。

(2).総合学習におけるテーマ

総合学習で最も大切なことは、何をテーマにして授業を展開していくかである。テーマを設定にするにあたっては、二つの道筋がある。一つは、子どもたちが自らの疑問や興味・関心からテーマを設定するもの。もう一つが教師の側から課題となるテーマを提起するものである。総合学習の場合、どちらかといえば、前者のケースを採用する実践が多いようである。時には、テーマ設定をすっかり子どもに任せるというケースも見うけられる。これは、子どもに学ぶ意欲をもたせるためには、自らの興味・関心に基づいて子どもが設定したテーマでなければならないと考えるからなのだろうか。しかし、安易に子どもにテーマを設定を任せてしまうことは、間違いである。なぜなら、子どもがどのようなテーマ設定をすべきか、問われるべき課題は何か、どのように問う必要があるのかを学ぶことも、子どもにとっての大切な教育だからである。子どもの学ぶ意欲は、自分の疑問や関心に関わることを学ぶときだけではなく、他者からの呼びかけに応えることの中で、学ぶ意味や意欲を喚起することはできる。例えば、後者の場合でも、教師が子どもの疑問や悩みをテーマとして設定していくこともできるし、教師の方から現代的・人類的課題をテーマとして提起しても、それが現代に生きる子どもたちにとって、自分たちの問題として捉え直されていくならば、子どもたちはそのテーマを追究する意味を見出していくことができるであろう。大切なことは、子どもが設定しても、教師が提示するにしても、テーマを媒介にして「他者との新たな関係をいかに構築していくことができるのか」を視野に入れておくことであろう。この場合の他者とは、テーマを共に探求している仲間や教師であり、テーマに関わる「当事者」である。

 ではどのようなテーマを設定していけば良いのだろうか。それは、第一に現実世界や既存の学問を批判的に検討し、支配的・権威的なものの見方や考え方を問い直すテーマである。私たちの生きる現実世界には、さまざまな支配・権威的なものの見方や考え方が潜んでいる。それは、強者=マジョリティの見方と言っても良いだろう。私たちの生きている社会では、そうした強者の立場にたった考えが、「常識=当たり前」とされている。そのために、知らず知らずにそうした強者の論理にたって考えがちである。従って、現実を検討するには、現実を検討の対象として捉え直し、批判的に検討することが必要である。それにはマイノリティの視点から見直しみることが有効である。

(3).私の実践の視点

私は最近、弱者の視点に立った学習を実践している(小6のハンセン病、中3の在日挑戦人・・・)。その視点を大切にするのは、行政が「たくましい日本人の形成」を主張すればするほど、子どもたちが、強者になれない自分を隠し、弱さを抱えて怯えざるを得ないからである。弱者の立場にある人にスポットをあてていくなかで、「たくましさ」を求めるのは社会は、一方で弱者を必然的に産み落としていくことになること、また弱者として生きる人の人間としての尊厳にふれるなかで、自己の内部にある弱者におびえる自分を解放していきたいと願うからである。

(4).学びにおける対話とは・・・これは当日の基調提案の学習会で述べます。


4,学年・学校・職場づくり

今年は教育相談の担当になり、職員会で次のような提案をした。
     ------------------------------------------------------------
『ふれあいの部屋について(不登校の子たちや悩みを持った子たちが来てもいい部屋,相談員が一名いる。)
 あるお母さんが、ふれあいの部屋に安住して教室へ行かなくなるのではないかと心配をしていた。もちろん、ふれあいの部屋に閉じこもってしまってはいけない。しかし、居場所があってこそ新しいことに挑戦できるし、新たな冒険にも飛び出すことができる。
 ふれあいの部屋は、このような一見矛盾するような課題を持って成立している「教室」である。子どもたちにとって、居場所となり、さらに新しいことに挑戦していけるような場となるために次の二点のことを提起したい。

 1、ふれあいの部屋の子たちの成績評価について
 2、ふれあいの部屋の授業

 県のスクールカウンセラー連絡会議では、学校に来ている限り授業に出ていなくとも評価をするべきだという指導がありました。ふれあいの部屋にいる生徒は授業をサボっているのではないという認識のもとに次の提案をします。
1、生徒が学校に来ている限り、学習や生活についての評価をしてやることが望ましい。
  ・たとえ、授業に出ていなくとも、評価テストを受け、作品を作れば、その観点での評価は
   できます。授業には出られなくとも頑張っているので、態度面でも評価をしてください。
  ・評価をできるように、テストは必ず受けさせる。
   相談員が見てやることができますので、テストを渡してください。
  ・作品は作らせてください。材料があれば指導は相談員が行います。
  ・実技的なテストについてもできるだけお願いします。

2、したがって、ふれあいの部屋での授業については、教科担任の負担になりますが、授業であつかった
  プリントやテストなどは、必ず本人か相談員に渡してください。
  ・教科担任は何らかの形で評価をできるように工夫をする。
  ・そのために本人の課題と評価の観点を明らかにし、相談員と相談しながら課題を進める。
  ・少なくとも、授業に出ていないから評価は1だというようなことがないようにしたい。
     ------------------------------------------------------------
 この提案はすんなりと通り,今までオール1の通知表は大きく変わっていった。先生方は忙しい中,ふれあいの部屋にいる子たちのために,授業の後に顔をのぞかせ,教材の説明をしている。

学校づくりの目標を「対話」を広げることにおいた。

     目標=「対話の広場をつくる」  「教育相談」を「対話の広場」に

 他の先生と話し合えるのは子どもを通じてしかない。ある時,仲間はずれが原因で不登校になった生徒がいた。この子の親からのクレームで対応が右往左往し始めたとき、かかわることを始めた。そして、分析と対応の方針を提起していった。担任や生徒との話し合いの結果は,できるだけ文書にして職員会に教育相談の「事例研究」の形で提案した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 《 事 例 研 究 》  女子の似たもの同士の「いじめ」

◎考察(このことをどう分析するか)
 この時期(固体化)の自我発達のためには「同質的」な友人関係が必要であり、その関係を失うことに耐えられないため、「金魚の糞」的な同調行動が現われる。「一人ではいられず、授業中以外全ての行動を共にする。」「自分自身で意思決定を行うことができず、常にグループに相談し、グループの意思・行動に同化し、心の中で違う意見を持っていても、グループの中では絶対にそれを出さない。」そのような関係は、子どもの中に心理的なストレスを蓄積させていく。そして「グループの中で、まるで順番かのように、仲間はずしがおこる。」
 だから、友人関係やグループで承認されないことが子どもに与えるダメージはきわめて大きく、その結果、友人関係のトラブルがすぐに不登校の引き金になっていく。同時に「自分がこれだけ相手から傷つけられたのだから、同じだけ相手を傷つけてやらないと気がすまない。」という復讐的ないじめを生み出していく。
 では、具体的にどうしたらいいのか。
(1) 安心して「私メッセージ」を表現し合える信頼関係の創造
   子どもの主観的な感情や感じ方を確認しながら、こちらの思いを返していく。
   お互いに「私メッセージ」を表現する。
(2) 不安や悩みの共有による表面的な「違い」を乗り越えた「同じ」の創造
(3) 「集団的自立」を成し遂げていくための「集団的内部規律」の創造
(4) 異質な子ども集団の間に相互承認の関係を実現していくこと
(5) 子ども集団を「いじめ問題を解決する主体」にまで高めていくこと
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 このような資料を配り説明した。(この提案の分析は楠凡之氏の本「いじめと児童虐待の臨床教育学・ミネルバ書房」を参考にして作った。)話し合いの時間はなかったが、その後の対応などで学年部の先生と話し合うことが多くなった。この後も、この集団は仲間外しを行っていく。その対応や分析にもかなりかかわれるようになってきた。
 私はここ何年か,がんじがらめの学校体制の中で,特殊学級や不登校の子たちに関わってきた。そして,一番弱い子どもの立場に立ちながら問題を提起していくことが,もしかしたら学校を変えていく「学校・職場づくり」の近道ではないかと思い始めている。大会の基調であげられている大和久実践も,ADHDの子を中心にした職員や子ども・親の対話の広場をつくりだしている。
 問題を提起すれば、それについての反発や反論が必ず返って来る。しかし,具体的な子どもの姿で議論すればすれ違いもおこらない。子どもたちの具体的な問題を解きほぐしていきながら、教員の中に対話を作り出していくことが現在できる学校づくりの道ではないだろうか。

5,まとめにかえて

具体的な実践事例と,実践的なスタンスまで提起されている。それぞれの実践の側面で集団づくりを成立させていくのは,個人との対話や,さらにそれが有機的に錯綜する場としての対話の広場をいかに創りだしていくのかという方向を重視している。そのような対話による今日的な自治的集団の形成のイメージを,かって「交響的集団」とも呼んだことがある。異質な者同士がぶつかり合い,論争したり対話したりしながら,ついに互いの心身の存在を認め合えるようになり,共同的な仕事や活動を通じて不協和音を交響的物語に織り直していく。自分や他者と出会うためには,身体をも含めた対話を介する以外にはないのであるから。なぜなら討論が集団内の力や認識の組み替えを引き起こす装置であるのなら,対話とは個と個,あるいは個と集団の関係性の組み換えを可能にするモノであると思われるのである。

(桂川氏の言うように,「他との関係づくり」というだけではない)

 それを考えていく時,実践家にとって対話とは,きわめて重要な教育的技量だと思える。(集団づくり入門第2版では,対話に関わって「思想的対話」「個別的接近」という言葉,概念があったが,これは主として対リーダーを意識したモノだった。)

 では対話とは何か。どのような条件で成立していると言えるのか。実践家は同僚や子どもとの間で「どうもズレテいるなー」と感ずることの多い中でも,どのようなときに「あ,今ここに対話が成立しているな。」と実感できるのである。

 穏やかに話しているから対話,とは言えないのではないか。穏やかな語り口で彼の内部から漏れだしてくる叫びを封じ込めてしまう行為を対話と呼んでいいのか。口角泡を飛ばす激しいやりとりだから抑圧と支配であり,対話でないとは言えないのではないか。

 「対話の広場」とは,学校,教室や職場でどのように実践されうるのか,その成立の条件とは何なのか。そしてどのように集団づくりに結びついていくのか。上記の提起を,各実践の側面での仮説として実践を進めたい。今後の実践提起では,特に我々実践家は意識的に対話を構築していく必要があると同時に,意図的に対話や討論の場面を記録していきたいと思うのである。そして,我々実践家は同僚や生徒との仮想の対話を想像し,創造できる力をつけたいと思うのである。



もどる