2009年度岐生研基調提案

対話・討論・討議を大事にしながら
       「現実」からの「学び」を追求しよう

1.行事を通して「育てる」ではなく、管理的に「締め」ている学校

 岐阜県内のあるH中学校、行事を大切にし、行事を通して生徒を育てる、そのような考え方をベースに学校経営が行われています。時数確保のために行事が削られる学校もあると思いますが、現在のところ、校長や教務主任を含め、そのような考えはないようです。

 私たち岐生研も、行事を大切にし、行事を行う中で生徒の活躍の場をつくり、居場所をつくったり成長させたりしてきました。しかし、このH中と本来の私たちの考えとはかなり違うものがあるようです。

 このH中では、行事が硬直化しています。ほとんど変わることはありません。新学期が始まってすぐに、「綱引き大会」が各学年の級長会などの主催で行われます。クラスが変わったばかりの団結を強めるためということで行われます。作戦を考える時間が1時間だけありますが、練習する時間はありません。当日は、担任もほぼ有無を言わせず引かされます。

 そして、「団結祭」。これは多くの学校では「体育祭」「体育大会」と呼ばれているものです。二十数年前の生徒会が、「クラスの団結を大事にしよう」という趣旨の下、個人種目を廃止し、団体種目だけを残して、この名前にしたそうです。県内の多くの中学校でも、すでに個人種目はほとんど無くなっているのではないかと思われます。クラスの団結を重視し、個人種目は廃止していく、この考え方自体は、私たち岐生研の考えと矛盾するものではないと思います。また、当時の生徒会担当の先生は、私たちとあまり変わらない考え方で改革をしていったのかも知れません。

 しかし、やはりこれも、硬直化しているのです。種目が毎年変わることがありません。どの学年にも共通して「学級対抗リレー」「大縄跳び」があります。学年種目は、1年生が「台風の目」、2年生が「6人7脚」、3年生が「ムカデリレー」です。毎年同じです。

 そして、団結祭前になると、クラスの役員からは、「朝練習」の「提案」ではなく「指示」があります。もう当然のこととして、指示が出されるのです。2008年度から「応援団や係の活動の時間を確保しよう」ということで「昼休み練習」は禁止となりましたが、2007年度まではそれも含めて「運営班」という班が、提案ではなく「決めて」いました。

 3学期には「合唱祭」があります。音楽科から「合唱祭の候補曲」が10曲くらい提案され、それを各クラスとも学活の時間に聴き、希望曲を出し合い、文化班長会を中心にして「どの曲をどのクラスが歌うか」を決めます。担任が「候補曲の中で思い入れのある曲」について生徒に語ることはありますが、他の曲を持ってくるなどはありません。ほとんど音楽科と文化班長たち、それで決着が着かなれれば学年会で決まっていきます。決まったら担任は必死になって、合唱祭で満足のいく発表ができるよう指導していきます。

 2年生の「スキー研」、3年生の「修学旅行」前には、「取り組み」が行われます。例えばスキー研前には「乗鞍へのパスポートをとる取り組み」が行われます。生活班、学習班、美化班、保健給食班、級長会などからの取り組みです。それらをクリアしていくと、パスポートのピースがもらえ、そろうと一つのパスポートになるというものです。そろわなければ、スキー研に気持ちよく行けない、ということになります。修学旅行前にも、同じような取り組みがなされます。

 また、それぞれの学期初め、終わり、それから前期・後期の初めと終わりにも「歩みだし活動」「締めくくり活動」が行われます。そのときの課題に合わせて取り組みを考え、どのクラスも足並みをそろえて頑張ります。

 それらの「取り組み」に対して、異を挟む余地はほとんどありません。どのような取り組みにするのかでは意見は言えても、「やるかどうか」について議論する雰囲気はありません。当然のこととしてやることになっています。学年の特活部が出す「月別カレンダー」にすでに入っています。その内容を考えるだけです。もちろんそれは、「2分前着席を守る」とか「私語をしない」とか、「掃除の場所ベルを守る」とか「完璧な服装」とかの「生徒が守るべき課題」です。

 そして、学年でそれを決めたら、当然のことでしょうが、それに対して付き合っていかなければなりません。一つのクラスだけ「守る雰囲気が無い」では済まないのです。「あの担任は力が無いからダメだ」などという冷たい雰囲気にはなりません。「学年で育てていく」のです。なかなかうまくいかない担任にはみんなでフォローして守らせていくのです。その中で、担任も「育って」いくのです。

2.上意下達でつくられる学校生活

 県内の大きな中学校ではほとんどがそうだと思われますが、以前から問題にしている通り、班のつくり方も決まっています。生徒会直結の「組織としての班」がつくられ、それ以外の班は認められません。そして、それが前期・後期と、1年に2回だけの班です。途中、人間関係で悩んだ生徒がいたとしても、その班で半年間がまんして生活することを強いられます。「力の無い担任でもある程度できるように」という理由をつけながら、担任が「班長たちによる好きなもの同士」に押し切られたとしても、それが半年間続いてしまいます。

 「決まり」は一方的に決まっています。どのような事情で今の決まりができたのかも、知らされません。先生たちも知りません。さらに、生徒手帳には書いてないことでも、一言「中学生らしい」とだけ書いてあることで、そのときの教師たちの考えによって、どんどん決まりが増やされていきます。それが押し付けられます。「なぜいけないのか」を問うことなく、「決まりだから」で「指導」されるのです。秋の合宿研でレポートされたM中では、「給食の配膳時間には読書をしている」ということまでが決まっています。「ほこりがたたないように、当番以外の子がどのように過ごすべきか」が問われることなく、それが「決まり」としてあるのです。また、宿泊研修に何を持って行ってはいけないのか、を話し合う余地はありません。話し合っているのは、不要物をしおりに載せるか載せないかだけです。普段から「不要物は持ってこない」という決まりは、県内のほとんどの学校にあります。H中では「自作のものなら可」になっているので、10分休みに「自作のトランプ」で遊んでいて、結局「席ベル」ができない、などの本末転倒のような現象も起こっています。

 生徒会も、H中では上意下達の機関になっています。執行部や委員長の考えたことに、議員や委員たちは協力する、どのように協力するのかを議論することはあっても、その提案を実行するのかどうかを議論することはほぼありません。議員が、議員ではなく執行部や委員会の協力者となっています。だから、議員の責任者は「議長」ではなく「副執行委員長」と呼ばれています。議会ならぬ「議員の集まり」の司会は、執行部が務めています。

 日常的におこる様々な問題(トラブル)に対しても、クラスの中で話し合うなどのような場面はほぼありません。関係者を個別に呼び、それぞれを教師が指導していく。もちろん、教師がそれぞれの生徒と話をすることは大事ですが、生徒同士が一つの問題に対して話し合うという場面はほとんど無いと言えます。

 このような中で、生徒たちは、自らの問題について深く考えなくても、多くの「ふつうの子」は「安心して」生活できていきます。自分たちで解決していくべきことが、先生たちによる決まりや「指導」で解決されたように見え、自分たちで自分たちの問題を解決していく能力が身についていきません。大事な問題について「意見表明」をする機会も与えられず、その力もついていきません。

3.対話・討論を重視してきた岐生研の実践

 そんな中でも、岐生研の仲間は、教師と生徒の対話、そして何より生徒同士の対話や討論を大事にして実践をしてきています。

 2008年「春の1日学習会」のレポーターとなった稲垣さんは、日常的によく起こっている「いじめ」の問題について、徹底して子どもたちに「自分の思いをみんなに語る」ことを大事にしています。例えば、個人同士のトラブルについて相談してきたK先生に対し、稲垣さんは「これってS子の問題だけじゃなくてみんなの問題だよ」と言って、クラスの問題とすることを勧めています。個々の問題として捉え、個別に呼んで指導するというスタイルではなく、その一つの問題を前年度からあった様々ないじめの問題に取り組んでいく突破口として、みんなに投げかけているのです。

 その後もそのスタイルは貫かれ、トラブルの当事者たちから個別に話をていねいに聴くことはもちろん行っていますが、それだけで当事者同士で解決を図るのではなく、それらをクラスや学年の問題として考え、みんなに考えさせることを大事にしているのです。その中から、トラブルの当事者たちだけでなく、リーダーたち、あるいは第三者的な子どもたちも、みんなの前で意見表明をしていきます。「ふつう」であれば、いじめの「傍観者」となってしまう子たちが、当事者となっていくのです。

 2008年「秋の合宿研」のレポーターとなったEさんも、子どもたちが安心して自分を出せる雰囲気をつくろうとしていることがうかがえます。例えば、形式的な学年集会の中で出された意見に満足せず、クラスに戻ってから「本当の気持を聞きたい」と迫り、それについて子どもたが書いた意見をもとに、また意見を出し合う。そのような丁寧な取り組みの中で、子どもたちが自分の思いを語れるようになっていくのでしょう。

 H中でも、例えば、「団結祭の朝練習を行うのか行わないのか」「行うとしたら、何時から行うのか(通常は、運営班から時刻まで一方的に出される)」を話し合い、みんなが納得できる、実行できるような結論を導き出す。そして、何とか1日でも「全員で守りきった」という日をつくっていく。そのようなことを自分のクラスで行うようなことをはじめとして、いくつかの抵抗らしきものは行っています。また、「生徒会と直結した班」についても、様々な場で疑問を投げかけ、特活指導部に本気で考えさせるような意見を出してきています。

4.学びを通して現実認識を深める

 2008年大分大会の基調は、
「(集団づくりの)指導の過程で浮かび上がる子どもたちの他者認識・集団認識・社会認識・自己認識の内実を、一人ひとりの行動をめぐる具体的事実にそくして集団に意識化させようとする。そうすることにより、生活現実をめぐる事実認識や価値認識(ものの見方・感じ方・考え方)を深めさせると同時に、民主的な行動能力と思想の自己形成をはげましていこうとする」「(集団づくりは)いまある生活と学習を批判的に問いなおし、より価値あるものに変革していこうとする学校づくり、教育づくりを展望する」
 と言っています。また、対話・討論・討議に関わって
 「@だれもが集団の一員としてたいせつにされること、したがって、自分の意思を自由に表明し、集団の意思決定に参加する権利をもっていること、Aとりわけ対話・討論・討議はこの権利を相互に保障しあう民主的な言説の空間であることを学ばせていく」
 とあります。そして、重要なのは
 「つねに少数者の意思や『弱者』の立場を尊重した話し合いとなるよう繰り返し指導していく視点である。とりわけ『現実』の価値認識をめぐっては、自他の見方・感じ方・考え方がどのような位置や立場からのものであるのかを意識化させる。換言すれば(複数の立場からの)『現実』認識や『正義』をめぐる対話・討論・討議を成立させる必要がある。そうすることにより、〈他者〉の視点からの『現実』のとらえなおしを促すと同時に、新たな生活と学習を切り拓くための〈正義〉の内実を子ども集団みずからが決定し、これを深めていくような学びを成立させていく」
 としています。

 引用が長くなりました。2008年度のレポートは、対話や討論を大切にしてきました。そして、特に稲垣実践の中では、子どもたちの語った言葉の中に「この取り組みを通して学んだな」と感じるくだりもあります。
 しかし、両実践とも、さらに問題を掘り下げて学んでいくということについては、弱さも指摘されました。現実にある問題の中から、テーマを決めて話し合ったり、「教室の外」にある問題を持ち込むことによって視野を広げたり現実の問題をより深く見させたりする、という「学び」にまでは発展していないということになります。例えば、江崎さんは、なかなかS子とつながれないでいましたが、そこに、例えば両者が共通して反感を持っている『学校体制』という媒介を入れて、それを他の生徒と共に学んでいくと良いのではないか、合宿研では、そのような指摘もなされました。
 合宿研で講師としておよびした坂田さんは、日常的な対話や学習の中で、実に多くの子どもたちの素朴な疑問を取り上げて討論しています。「学び」の材料を、日常的な生活の中でアンテナを張って見つけたり、意図的に子どもたちが出してくるような活動を仕組んだりしていくことも大切になってくるでしょう。

 私たちが大事にしている対話・討論・討議を引き続き大事にしていく。少数者や弱者の立場を大切にしていく、様々な意見や思い、考えがあるのだということに気づかせ、そこから問題を解決していこうとさせる。そのようなスタンスは保ちつつ、さらに、そこに、意図的な「学び」を入れていくことにより、より深い現実認識を育てていくような実践を追求していきましょう。


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