「教師のタイプ・モデル論に意義アリ」に反論

西濃サークル 田中秀樹

 合宿研の研究総括の中の「教師のタイプ・モデル論」についての河田氏の批判ですが、常任委員会のおりの論議でははっきりいって中途半端でした。この問題を燻らせたままではいけないと私も思っていました。この論争が私と河田氏との間の往復書簡という性格だけでなく、岐阜生研に公開されるものとして、多くの人の参加を期待したいと思います。

 まず「タイプ・モデル論」についてです。私の読解によれば、河田氏の批判は、

@「そのようなタイプ・モデル論は、教師の権威主義を生む危険がある。」

A「同時に教師の固定的な見方を強め、自信をなくすことにつながる。」

B「さらに教師がモデル像を持つことは、子どもや教師への見方を曇らせる危険性もあるのではないか。」

 というものです。結論から云えば、私は河田氏が提出した、これら「タイプ・モデル論のもつ「危険性」の指摘を否定しません。そのように河田氏が感じるのは自然なことだと思います。その上でなお特に若い教師に「教師としてどう自立していくか」という問いとして「タイプ・モデルの教師論」を提出したいのです。

 絶対に失敗しない、子どもを傷つける心配のない、常に正しい指導とは、すでに指導とは呼べないのかもしれません。我々教師が実践家である以上、そして教師という集団の中で実践研究している以上、その中の誰一人として権威主義、教条主義、経験主義から常に完全に自由であり続けることなどない。むしろ権威主義や経験主義に陥る誘惑に一度も嘖まれたことがない教師とは、逆にそれだけの実践や学習に対するこだわりや熱意がないという意味において、すでに実践家とは呼べないのではないかとさえ私は考えてきました。だから権威主義に陥る危険を予測し、自戒しながら学習・実践すればいいと私は考えてきたのです。そして「タイプ・モデル論」には、そのような危険と同時に、大きなメリットもあるのではないでしょうか。

 ただ「タイプ」「モデル」といった言葉の規定についてはあいまいだった、または適性を欠く表現なのかもしれません。私の云う「教師のタイプ」というのは、血液型のような固定的な意味で使ったのではないのです。「現在の教師としての自分が、どのような指導的な特徴をもった存在なのか」「どちらかというと、子どもへの指導にこういう傾向が強い。」などということに、注意を払い、そのことを分析・自覚・自戒して実践をすべきだ。」といいたいのです。

 例えば、「教師としての自分は、どちらかというと無意識のうちに女子よりも男子のリーダーに依拠して実践を進める傾向が強い。」とか、あるいは「自分は身体的に大柄で背が高いので、そのままだと子どもや教師と論争する時に上から見下ろして話すことになる。だから威圧的な印象を与えがちだ。」などです。教師のやることには必ず過不足があるのは当然でしょう。それはその教師の実践上の特性、長所、武器となることもあれば、時に実践上の障碍となることもあります。つまり具体的な実践を構想するときに、教師は学級集団や子どもの分析をして指導構想を立てるが、実はもう一つ必要なものがあります。それは教師の自己分析なのです。

 どんなすぐれた教育理論も、実践化されてはじめてその意味をもちはじめます。しかし教育理論と実践との間には実際には大きな狭間が存在しています。何故なら、理論を実践化するのは様々に過不足のある生身の人間・教師であり、対象も生身の学級集団だからです。

 河田氏は「自分はすぐれた教育実践をするためにタイプ・モデルを求めたことはない。それよりは理論を求めた。」というような意味の発言をされています。氏のような理論家、というより理論を自己の学級や学校の教育状況下での具体的な実践へと自力で構想したり、逆に自他の具体的実践から特殊なものや無関係な部分を捨象して独学・独力で理論へと昇華させる力量と経験をもった実践家はそれでいいのかもしれません。

 しかし一般的に特に若い教師に、あるいは理論を読んでも聞いてもなかなか自己の実践構想が立ち上がってこないという岐阜の教師たちに、河田氏のような教師としての進み方をはじめから勧めることができるでしょうか。

 例えば私は教師になりたての頃、子どもにする自分の話が少しも入っていかないことに悩んでいました。何故なのか。そんな時に服部潔氏の話が自分にとって極めて聞き易いことに惹かれたのです。ただ、自分の語り方と服部氏のそれとがどこが違うのかが何度聞いても分からなかったのです。それで私は服部氏の語り口を真似て子どもに語ってみて、子どもの聞き方にはっきりとした違いがあることに気づきました。そして何度もやってみて分かったのは、服部氏の語りには「応答」があり、わたしのそれにはそれがない、一方的なものだと気づいたのです。

 学びとは、まず真似てみる、追試してみる、そしてその中から自分の過不足に気づき、理論化していくという学び方もあると私は思うのです。モデルとは河田氏の云うようなすぐれた理想像、自分には到底真似のできないものであるのなら、それはモデルにはなり得ません。モデルは与えられる、押しつけられるものではないのです。

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